2015-05-31

病と政治


「高橋和巳(たかはし・かずみ)」と耳にしても、

30代より下の年代でピンとくる方はほとんどいないかも。

ジャイアンツの投手だったヒトじゃないですよ。
あれは、
「高橋一三」

小説家で中国文学者で京都大学の助教授もつとめました。
1971年、癌(がん)で亡くなりました。
享年39ですから、早逝といってもいいと思います。

小説『日本の悪霊』は黒木和雄監督で映画化もされました。

全共闘世代…いわゆる団塊の世代の支持を得た人物で、
僕が同志社に通っていた1980年代前半でも、
それなりに読まれていたという印象があります。
ただ、
毎日、ヘルメットをかぶった学生がキャンパス内でデモをしていたような“ガラパゴス”環境だったので、
世間一般の大学の事情とは違うかもしれません。

『高橋和巳エッセイ集「孤立無援の思想」』(旺文社文庫)に、
「思うに内臓の一部分、たとえば心臓がむやみに気にかかるという状態は、その人の心臓が病んでいることを意味するように、わたしたちにとって、政治のことが気懸りなのは、人間が人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分があることを意味する」
…という一節があります。

そして…
「しかし、もし幸運にも病苦を忘れうるなら、私は必ずしもその忘却や無関心を非難はしない」
…と続きます。

1963年に書かれています。
この文章に出てくる「政治」は、
別の言葉に言い換えられるでしょう。
たとえば、「政治」と不可分ですけどれど、
「国際関係」ですね。

もっと具体的な例では「福島第一原発事故」もそうでしょう。

ただ、高橋和巳はここでは、
「政治」に限定しています。
そのうえで、
「最大多数の最大幸福を意志する政治」は、
「百万人が前に向って歩きはじめているとき」に、
顔を覆って泣いて、その“行進”に参加しない脱落者を見捨てるが、
「文学者」は、
百万人の隊列の後尾で、
(理由はなんであるにせよ)「うずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである」と断言しています。

本来の高橋和巳の意図は別して、
僕にとって、
この文章の示唆するものは、

おおまかに2つあります。

「政治」の問題を解決するのは、
緊急避難的な弥縫策である場合が多く、
問題が解決したと見えても、
副作用があったり、
新たな火種を生んだりして、
人間の根源的問題は残るということ。

そして、
もうひとつは、
本当に病んでいる部分があるのに、
別のことに気を取られたり、
痛みが現実になっていなかったりするため、
忘却や無関心が起こるということ。

この2つを「文学者」ではない僕が、
自分なりに総合すると、
「政治」で改善できるのは弥縫策が奏効する問題がほとんどなので、
「政治」に依存せず、
「個人」が自律的に解決していくことが大切だけど、
今、自分に痛みがないからといって、
「政治」が解決できる問題に無関心であったり、
忘れてしまったりしてはいけないということ。

そして自分の身体を気遣うように、
「人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分」を意識することが大切なんでしょうね。

ちなみに、
床屋談義が盛り上がることを、
政治への関心の高まりと誤解してはいけないような気がしています。
先の「大阪都構想」の住民投票への議論は、
床屋談義の盛り上がりにすぎなかったかも。
「変化するか、しないか」ではなく、
「どのように変化するか」かが問われたのに、
投票が終わってみれば、
みんなが傍観者になっているような気がして…。

痛みのない変化はない。

「病」からの回復には痛みはつきものなんだと思います。

2015-05-30

俗字のバカ野郎

近鉄・奈良線の電車内の吊り広告=2015年5月29日

新聞社・通信社はどこも、

「たんけん」は「探検」、
「ぼうけん」は「冒険」と表記することになっています。
「検」と「険」に使い分けですね。

「冒険」の「険」を「検」にすると、
明らかに間違いって感じですけど、
微妙なのは「たんけん」ですね。

きのうも仕事で近鉄奈良線に乗っていたら、
「明治探険隊」と印刷された吊り広告を見ました。
明治村(愛知・犬山市)のイベントの宣伝です。

「たんけん」が「探険」と表記されると、
職業的に染み込んでいる意識が、

違和感を覚えるわけです。

実際、大学のクラブ・サークルは「探検部」が一般的ですし、
インターネット百科事典「Wikipedia」で調べても、
「たんけん」は「探検」です。

しかし、
辞書で引くと、
「探検」「探険」が併記されているのがほとんどです。

固有名詞にしても、
漫画家の東海林さだおさんのエッセー集は『行くぞ!冷麺探険隊』(文春文庫)で「険」をつかっています。

また三島由紀夫は『豊饒の海』のなかで「探険」を使用しています。

さらに、古代漢字研究の第一人者で文化勲章も受章した白川静の字書三部作のなかの漢和辞典『字通』(平凡社)の「探」の項(1057ページ)には「探険」しかなく「危険を避けずにしらべる」とあります。
ただし「検」の項(442ページ)の語彙のなかに「探検」がありますから「危険」の有無が表記に関係しているようです。

…というわけで、
どちらでも良さそうですが、
僕は「探検」を使い続けるでしょう。
深い意味はないけど、
馴染みの問題ですね。

ちなみに
「波瀾万丈」も「波乱万丈」と書くのは誤りだとの説があって、
新聞では「波瀾万丈」を使いますが、
これもどちらでもいいみたい。
僕が小学生のときに使った古い辞書でも併記されています。

でも「波乱万丈」と紙面に載って、
「間違いだ」という指摘の電話などをいただいたことがあります。
「波乱」は誤用だと信じこんでいる校閲記者もいて、
往生したことがありますが、
詳しくは書きません。

職業病というか、
印刷物などの表記は気になります。

人名になると間違いは歴然ですので、
言い訳ができない。
…ということで、
「これは気をつけないといけない」という間違いやすい典型例があります。


たとえば、
「緒形拳」を「緒方拳」としてしまいそうになるのが一例で、
「萬屋錦之介」と「中村錦之助」がごっちゃになって、
「萬屋錦之助」とか「中村錦之介」としたり、
「世良公則」が「世良政則」になったり、
「中村美律子」が「中村美津子」と惜しかったり…。
ただ、この場合「美津子」が本名らしいので、
微妙ですね。

それから兄弟なのに、
「蘇峰」は「徳富」、
「蘆花」は「徳冨」…というややこしいケースもあります。
(ぱっと見て違いがわかりますか?)

個人的に苦手なのは自分の姓の俗字表記にこだわる人間です。
(ちなみに「冨」も俗字)
特に姓に多い「高」と「崎」の俗字。
このふたつの漢字の俗字は機種依存文字なので、
インターネットなどの場合、
ちゃんと表示されないことがあります。
新聞社のサイトの場合、
機種依存文字は使いませんから、
本来の文字を使います。

「高」の俗字はいわゆる「はしごだか」
「崎」は「大」が「立」という表記です。
「澤」は「沢」の旧字・本字ですけど、
それとは意味が違う。
俗字の場合は、
ちゃんと正しい字があって、
俗字の方はデザインの問題みたいなもんです。
その証拠に「高校」の校章は「はしごだか」が使われているケースが多いですよね。
NHK連続テレビ小説の『純情きらり』は愛知県岡崎市が舞台ですけど、
番組のなかに登場する味噌屋かなんかの店の方が着ている法被(?)の染められている「岡崎市」の「崎」は俗字でしょ。

僕の名前にも「崎」が入っているんですけど、
戸籍上では、
俗字のほうなんです。

でもね、
これは多分むかし役場の人間が、
本来の「崎」を、
俗字で手書きしたのが活字化されデジタルデータになったときにそのままになっただけでしょう。

その証拠に、
僕の親戚の墓の表記は昔から「崎」です。
どうも親戚内でも、
住んできた地域によって戸籍・住民票も、
「崎」と、その俗字が入り混じっているようです。

で、
何が面倒かというと、
戸籍が俗字だと、
ネット上の表記も「そちらで」とこだわる方がいます。
俗字を旧字・本字だと誤解しているバカ方もいらっしゃいますし。

それから銀行に行って、
書類の名前の欄に「崎」で書くと、
身分証明書にした運転免許証の表記と違うっていうんで、
訂正させられます。
面倒です。

こだわりたい方はいいですけど、
もう法律で俗字の場合は、
戸籍が俗字でも、
正字で問題なし!ってしてくれませんかね。

公文書に署名するときに「崎」って書くと、
警察や検察から因縁つけられて
虚偽記載で検挙されることはないと保証してほしいもんです。

だいたい先に引用した『字通』には、
崎の俗字なんて全く影も形もありませんもんね。

それに、
僕の名前は、
「崎」の画数でつけられているんです。
俗字だと画数が変わって縁起が悪い……
…ってこだわっているのは僕なのかな。

それにしても、
「探検」から始まったせいか、
密林で迷ったような文章になってしまいました。

おあとがよろしいようで。
チャカチャンリン♪チャンリン♪

2015-05-29

落語を「きく」か「みる」か


きのう(2015年5月28日)は、
平日・木曜でしたが、
代休でしたので、
大阪・ミナミの「道頓堀角座」へ参りました。

かつては「浪花座」「中座」「朝日座」「弁天座」と並んで、
「道頓堀五座」の名門の流れをくむ劇場で、
現在の建物は座席数126の2013年7月28日に開業した“ミニシアター”という趣きです。

僕は今回、初めて中に入りました。


プログラムのタイトルは「角座日中(ひなか)はなしの会~角座の昼の落語会」で、午後1時の開演です。

当日券が1500円、前売りは1300円というリーズナブルな設定で、
出演は、桂治門▽桂咲之輔▽笑福亭呂竹▽笑福亭由瓶▽笑福亭喬介▽桂壱之輔…ですから、
最年長の由瓶(1971年5月21日生まれ)が44歳で、
最年少の咲之輔(1983年11月18日)が31歳という、
これから中堅になる若手という顔ぶれです。

どの噺家さんが、どのネタを口演したかというのは、
メモを取っていなかったので、
少々心もとないのですが、

先に列挙した登場順に沿うと、
「つる」「桃太郎」「青菜」「試し酒」「犬の目」「寝床」のはず…。

印象に残ったのは「試し酒」で、
これは中入り前に由瓶が演じました。

扇子を一升が入る大杯に見立てて5杯の酒を飲み干す姿は圧巻で、
客席からも大きな拍手が起こりました。

客の入りは6割くらいでしたでしょうか。
空調も丁度よかったのですが、
由瓶の顔は汗だく。

その汗が演出の効果にもなっていたわけです。

そこで、
思ったのは落語というのは、
「みる」ものなのか、
「きく」ものなのか…ということ。

寄席に行く場合、
「落語をききにいく」というのが一般的ですし、
「話芸」といわれますから、
やはり「聴覚」に重きがおかれているのでしょう。

とはいえ、
最近、桂米朝師の口演の速記録をまとめた本のシリーズを読んでいて、
思いますが、
少なくともテレビなどで映像で、
演じる米朝師の姿でをみたことがないと、
面白さは半減する気がしました。

CDは、
それよりは実際の面白さが伝わるでしょうが、
「声」のない部分の間で、
噺家さんがどのような表情・しぐさをしているかの想像がつくつかないでは大違い。

で、
ものすごく不思議なのは、
本来は20分の長さの口演の速記を、
5分くらいで流し読みしても、
頭の中では、
噺家が通常のスピードで演じている声が頭のなかで再生されます。

ここ5、6年は、それ以前よりも、
足繁くナマの高座に通うようになってまして、
その不思議な“現象”が顕著なので、
速記録でも、かなり楽しめるようになってきました。

これは、ものすごく嬉しい。

その喜びに比例して、
ますますナマの寄席に行きたいという気分の中毒度が高まってくるのです。

何がいいたいのかというと…。
落語はナマで「みる」ものだということです。

着物と扇子と囃子といった最低限の演出コストで、
いろんな「映像」を「みる」ことができる落語はやはり、
スゴいエンターテインメントです。

2015-05-28

大革命の条件


NHKの大河ドラマ『花神』は、

1977年1月2日から12月25日までの間、
全52回にわたって放映されました。
僕が中学2年から3年にかけてのことで、
たぶん全回を視聴しました。

それまで大河ドラマをみる習慣はなくて、
これが初めて。
その後も熱心に視聴した記憶はないし、
今も観ていない。

そんなこともあって、
「大河」のなかでは僕にとって、
比類なき名作ということになっています。

主人公は靖国神社の参道中央にある像が立っている大村益次郎…元の苗字・通名は村田蔵六です。

どこが魅力的だったのか。
これを時系列も含めて説明していくと長くなるので、
それは省略。
簡単にいうと、
大村益次郎という人物の合理性、
機能美を体現したかのような生き方にとても関心を持ったからです。

この日本近代兵制の創始者の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『花神』(新潮文庫/上・中・下)が原作です。

その原作のなかに、
「大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者である、この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい」
…という一節があります。

僕は2003年4月から半年間、
会社の「国内留学」制度を利用して、
インターネットと報道メディアの将来について、
当時、大阪・吹田の万博公園にあった民間の研究・教育機関「インターメディウム研究所・IMI『大学院』講座」に通いました。

そのときに読み返したのが『花神』で、
引用した部分がとても示唆深く、
印象に残ったのです。

印象に残ったという、
間接的な表現でなく、
もっと端的にいうと、
三番目に登場する「技術」は、
現代では「IT」だと確信に近い推測をしたんです。

IMIに通うかたわらで、
慶応義塾大学が中心になってインターネットに公開していた「SOI」でも勉強していました。
「日本のインターネットの母」と言われる村井純先生の講義は、
ノートをとりながら、ほとんど視聴していました。

ここでインターネットの…
・「努力するけど保証しない」というベストエフォートの考え、
・中心がなくて、どこかで分断されても、つながる仕組み、
・自律・分散・協調の精神
…といったものが「革命」の原動力になると感じました。

当時はまだブログという言葉が一部で出回り初めた頃で、
YouTubeのサービス開始は、その3年後、
twitterやFacebookもありませんでした。

で、
現在…。
「アラブの春」などにも明らかなので、
もう説明は不要ですけど、
「IT」と、さまざまな「革命」は無縁でありえません。

この状況を後戻りさせることは不可能でしょう。

そして僭越ながら、
司馬遼太郎の言葉に付け加えさせていただくならば、
現在は、
革命のプロセスで役割を分担して時系列で登場していた
「思想家」と「戦略家」と「技術者」が、
同時に登場し、
またその役割をひとりで担うこともできる時代となっています。

ただ、現在の日本の教育のなかで、
そのような人物が生まれるか、というと、
否定的な見解を持たざるを得ないのですけれど。


2015-05-27

才能と集中力と持続力


今年5月13日に119日間に及ぶ公開を終えた「村上春樹 期間限定公式サイト『村上さんのところ』には3万7465通のメールが寄せられたという。

このサイトは、
多くの方がご存じのように、
寄せられたメールに対して、
ノーベル賞候補作家といわれる村上さんが返事を書いていくという構成で、
「容赦ない」と話題になったのが23歳の女性(大学院生)からの“希望”に対する回答でした。

文章を書くのが苦手なのですが、
何とかなりませんでしょうか…というメールへの村上さんの返信が、
「文章を書くというのは、女の人を口説くのと一緒で、ある程度は練習でうまくなりますが、基本的にはもって生まれたもので決まります。まあ、とにかくがんばってください」
…でした。

確かに「容赦ない」のだけれど、
村上さんの書いたものを読んでいれば、
それほど意外な回答ではないですよね。

たとえば、
走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)』(文春文庫)の中の一文。

「小説家にとってもっとも重要な資質は、言うまでもなく才能である」と断言していらっしゃいます。

さらに、
「文学的才能がなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。これは必要な資質というより前提条件だ」と追い打ちをかけています。

で、次に重要なのは「集中力」、
その次は「持続力」だといい、
この2つは「才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させることができる」とのことです。

また才能を持った人間のなかでも、
シェイクスピア、バルザック、ディッケンズは、
その才能が枯渇することのない「巨人」だそうで、
世間の大半の作家は巨人ならざる存在だとしています。

村上さんは自身を「もちろん」と前置きして「大半の作家」の一人だとし、、
才能の不足分は集中力や持続力で補っていかないといけないとおっしゃっています。

小説家になる才能を持った人間がどれだけいるかは知らないのだけど、
僕自身に、その才能がないことは確信しています。

書いたこともないし、
書こうと思ったことがないのが、
その証拠ですね。

とはいえ、
才能にも色々とあります。
小説家の才能だけではないのは言うまでもない以前のこと。


わずかばかりのなにがしかの才能があったとしたら、
集中力と持続力があれば、
何とかなりそうな気がしますね。

その才能を自分で見つけることができなかったり、
他人に見つけてもらったりできないままで、
眠らせているケースが多いだけだ…といえば、
オチめいたハナシにはなるんでしょうけど、
どうも違うみたい。

結局、わずかながらでも集中力と持続力を使うに足る、才能があると信じられるかどうか、なんでしょうね。

信じたけど、本当はなかった、ということもあるに違いありません。

でも、本当に集中力と持続力が発揮できたとしたら、
それはまぁそれで生き方として悪くない。

「無能な働き者は害毒」だというハンス・フォン・ゼークト(1866-1936年)の考え方について以前に書きました。

これは才能がないのに集中力と持続力があるのは、
「無能な働き者」と似ているようですが、
全然違うような気がします。

僕の考えでは、
「無能な働き者」には集中力と持続力はないからです。
彼らにあるのは、
自分に負荷の少ない、
執着と惰性です。

もちろん、
これは無為に馬齢を重ねた反省から得た教訓です。

2015-05-26

心配と不安

「われわれを最も疲れさせるのは、終わっていない仕事である」
=『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』(作品社)から。

つまり、やっていないことに疲れるわけで、
結果を出していないのに、
疲れるだけで、
仕事をした気になってしまうことは確かにある…僕の経験だけど。

『新約聖書』の「マタイによる福音書・第6章」も「思いわずらうな」と戒めている。

心配するなら、
もっと他にすべきことがあるということで、
不安で自分を苛(さいな)むことを免罪符にすることに何も良いことはないということなんでしょうね。

心配と不安に益はないってこと。

心配と不安は暇の産物なのかもしれない。

心配や不安が心をよぎるときは、
もっと他にすべきことがあるサインなんでしょうね。

それと依存心のあらわれ。

心配と不安が停滞の原因なのだとしたら、
究極で最悪の喜劇。

その証拠に心配と不安についての無駄さについて書いていると、
すべてが陳腐で、
分かりきった言わずもがなのことにしか思い浮かばなくてキリがない。

2015-05-25

不安神経症

僕が、このブログを始めようと思ったいくつかの動機があります。

まだ、具体的にふれてはいないのだけれど、
20代の終わり1991年秋ごろに発症して、
長いつきあいになった「不安神経症」からどのようにして“脱出”したかを、
書きたかったというのが、そのひとつ。

「神経症」っていうのは、
今で言う「パニック障害」ですね。

ひどいときは、
自宅から数十メートル外出するのが難しい。
電車に乗ると、
「死」の恐怖に襲われる…。

心臓が破裂すると思うほどの鼓動で全身が脈打つ、
手のひらからしたたるように汗が流れる、
息ができない…
…といった症状が頻繁にでました。

とはいえ、
喉元すぎれば熱さ…なんとやらで、
今から思えば、
自分のことなのに、
他人事のような気さえします。

現在、その苦しみの只中にいる方も少なくないと思うのですが、
僕は、
そんな「症状」は確実に克服できると断言できます。

方法はひとつじゃないでしょうけど、
まず絶対に治ることを信じるのが出発点です。

単に心とか考え方の問題ではなく、
身体や周辺の環境にも起因しているので、
“脱出”への道は、ヒトそれぞれでしょう。

本も役に立ちます。

多くの本を読みましたが、
僕が一番たすけられたのは、
講談社ブルーバックス『不安のメカニズム』(クレア・ウイークス著・高木信久訳)でした。

数えきれないくらい読み返したのでボロボロです

さまざまな症状のパターンをうまく言葉に現してくれていて、
まず自分が特別な状況に置かれているのではないことがわかります。

その“口調”が実際に話しかけてくれているような気になるのも心強いです。

症状に苦しんでいるときに、
この本を読むだけで安心したことを覚えています。

何より、
治療の「根本原則」がシンプルなのがいいです。

この「病気」の原因が「恐怖」で、
それが症状に至るメカニズムを解き明かし、
症状に対して、
「直面する」「受け容れる」「浮かんで通る」「時の経つのにまかせる」という4項目で向きあえばいいとアドバイスしてくれています。

もちろん、その実践は簡単なものではなかったのは、
僕も覚えていますし、
さらに他の工夫なども必要なのですが、
結局、症状の解決は、
この4項目が基本なのです。

極端に言えば、
発症するまでは、
無意識のうちに、
身心の変調に対して、
そのように対処していたのだと思います。

回復は徐々に、という部分と、
劇的な変化とが折り重なってやってきました。

もし、
偶然に、このブログを読まれた方で、
パニック障害で苦しみ悩んでいる方があれば、
とにかく焦らず、
まず一進一退が、
回復の兆しなのだと考えていただけば、
いいと思います。
今後、折々にそんな経験を綴っていくつもりです。

2015-05-24

「仕事」で過労死はしない


今年1月、にスイス・チューリッヒで開かれたFIFA(国際サッカー連盟)主催のバロンドール表彰式で、
サッカーライターの賀川浩氏が日本人初となるFIFA会長賞を贈られました。

webニュース「産経WEST」(2015年5月5日【サッカーなんでやねん】)によると、ジャーナリストとして世界で初めてでもあったそうです。

昨年12月に満90歳になられた賀川さんは元サンケイスポーツ編集局長で、
サッカー・ワールドカップ(W杯)の1974年・西ドイツ大会(当時)から2014年のブラジル大会まで計10大会を現地取材されました。

会長賞は、そんなサッカー界への功績が評価されたようです。

今も現役で、
まさに「生きる名人」。
お手本にさせていただきたい方で、
あやかりたい。
昨年8月2日、神戸市立中央図書館で、
賀川さんが開いたW杯ブラジル大会の取材報告会は、
僕も拝聴し、
有り難いことに、ご挨拶までさせていただきました。

やはり、
好きなことを極めてきた人物独特の自由闊達さを感じました。
そのときはまだ「会長賞」は噂にものぼっていないような時期でしたけど、
もちろん、「賞」や「栄誉」を目的に活動されてきたのでありません。
やり続けることができた結果の受賞と栄誉です。

だから体調管理も必要だし、
90歳まで健康に活動できる「運」も関係してくるでしょう。
「神さま」も味方につけないといけないわけです。
その賀川さんの著書に『90歳の昔話ではない。 古今東西サッカークロニクル』があります。
90歳の「現役記者」ともなれば、
個人的な回顧でも充分に読み物になるのでしょうけど、
この本は違います。

序章で、ご自身の「記者稼業」スタートについて、
「当時の産経新聞編集局は、運動部の向こうの文化部に司馬遼太郎がデスクで座っていた頃。運動部にも社会部にも司馬さんと張り合う文章家のデスクたちがいたのも、大きな刺激だった」と書かれているくらいで、
懐古趣味的な部分なくて、
まさにタイトル通り「昔話ではない」。
サッカーの年代記や、
歴代の国内外の選手、
ご自身が取材したW杯について、
客観的な裏付けをもとにした分析などが、
綴られています。

そこには年齢を越えた普遍的ともいえる表現があります。
もちろん経験があっての結果なのでしょうけど…。

それだけに、
この本のなかで、
第三者が賀川さんについて書いた部分は貴重ともいえます。
そのひとつが国吉好弘さん(週刊サッカーマガジン編集部スーパーバイザー)が書かれた「『あとがき』にかえて」。

2002年の日韓W杯開催を目前に控えて、
別冊の発行など過酷な作業が予想された週刊サッカーマガジンの編集部が“本番”前に壮行会的なパーティーを開いたときのこと。

その席に参加した賀川さんは激励のスピーチの最後に、
「仕事が忙しくて、死んだ者はいない」とおっしゃったそうです。

「大変だけど、頑張ってください」というような言葉を漠然と予想していた編集部員たちは、
「肩透かしを食ったというか、妙に納得させられた」といい、
「そりゃそうだよな」という気分で肩の力が抜けたそうなんです。

そのお陰もあってか、
無事に乗り切ってW杯閉会後、通常の生活に戻ったそうなんです。

「仕事が忙しくて、死んだ者はいない」という言葉には異論がある方も少なくないと思います。
「過労死はどうなるんだ」というような指摘ですね。

でも、過労死は、
過酷な勤務・労働が心労になって誘引されるような気がします。

過労死は不幸な「労災」なのでしょう。

賀川さんにとって「仕事」は「労働」とは別のようです。
もちろん無茶な上司の命令に従ったり、、
生活のためだけに、こなしたりするものではない。

だから忙しくても心労が蓄積しないということなのかもしれません。

「仕事」をして生きていきたいと切に思います。

2015-05-23

「やる気」は必要か

「鼻炎のため当分の間お休みを頂きます」とのことです。

誰が休んでるかというと、
が和歌山電鐵貴志川線貴志駅(紀の川市)の「たま駅長」です。

そっけなく言ってしまえば、
メスの三毛ネコですけど、
説明はいらないですね。

僕の故郷・和歌山県を代表する“顔”のひとつです。

同じ和歌山の顔、白浜のパンダたちは、たま駅長に少し水をあけられているような気がするのは僕だけでしょうか?。

1999年4月29日生まれだそうですから、
満16歳です。
人間の年齢でいうと、80歳ということで、
今年の誕生日には桃の木を貴志川駅に記念植樹したそうです。

…といっても、たま駅長が自分の手で植えたわけでなく、
周囲の人間の手を借りたそうですが…。
ネコの手で植樹は難しいでしょうからね。
まぁ企画した関係者はネコの手じゃなく、
ネームバリューを借りたというわけです。

貴志川線和歌山駅のあるJR和歌山駅9番線に通じる地下道には、
貴志川線への動線を示す、
「たま駅長の足あと」がペタペタとペインティングされています。

実物大だとよくわからないせいか、
ネコにしては、かなりでかいんです。何年か前に初めて見たときから1年くらい、
パンダの足あとだと勘違いしてましたもん。
一応、和歌山といえば、
パンダも看板ですからね…7頭もいるし…。

もし、僕と同じように勘違いされている方がいらっしゃったら、
頭の中で情報を修正してください。
ネコの足あとです。

きのうJR和歌山駅に行ったので、
貴志川線のホームへ行ったら「いちご電車」が停まってました。

和歌山電鐵にはいろんなものをテーマにした車両があって、

「いちご電車」は貴志駅周辺の特産品のイチゴをモチーフにしてて、
車内のシートはイチゴ柄、

のどかな感じの木製のイスやテーブルも配置されています。


そのほかに電車内のガチャガチャマシーンでおもちゃを販売する「おもちゃ電車」。
それから「たま電車」もありますが、
これは説明不要ですね。

たまグッズもいろいろあって、
サクマ製菓とコラボした「たまドロップ」を買ってしまいました。

家に持ってかえったけど、
雷蔵くん(ネコ、サバトラ、♂、2歳)も、
あんまり喜ばないし、

球太郎くん(ネコ、シロキジ、♂、1歳)なんかは迷惑そうですもん。
なんかもう「節子に申し訳ない」という気持ちです。(わかる方だけわかってください)


廃線寸前だった14.3キロ(14駅)のローカル線が、
「たま駅長」のおかげもあって、
存続しているわけですね。
役に立たないのがネコの本分みたいなところもありますけど、
やるときはやるんですね。

そういえば、
「招きネコ」もいろんなところで貢献してますもんね。

ネコたち自身にやる気があるかどうかは別にして、
やる気を出して空回りして、
自己満足止まりよりは、、
やる気がなくても結果を出してるほうがエラいですよね。

ハンス・フォン・ゼークト(1866-1936年)が言うところの「無能な働き者は害悪」ってことにも通じるのかもしれません。

物事を達成するのに必須なのは、
やる気じゃないってことなんでしょうね。

やる気を見せるのは失敗した場合への事前の言い訳とか、
プロジェクトとか組織のリーダーが、やる気を見せる部下を重用するってことだけかも。

2015-05-22

泥棒コスプレの必須アイテム

唐草模様

きのうの話の続きです。


1960~70年代のマンガやアニメに登場する泥棒(どろぼう)といえば、
ほっかむりに唐草模様の風呂敷づつみを背負っているのが定番でした。

それが泥棒のただしい姿。
窃盗犯のアイコンみたいなものでしたから、
僕なんか唐草模様をみると、
泥棒をイメージしてしまいます。

でも目立ちますよね。
犯罪者のコスプレアイテムみたいなもんですから。

どうして泥棒は唐草模様の風呂敷づつみを背負っているのか。
ググってみたら、
「なるほど!」と膝をパンパン打てる説が見つかりました。

 NTTコムウェアのサイトにあるオンラインマガジン「COMZINE」の連載「ニッポン・ロングセラー考」のバックナンバーに「風呂敷」をテーマにした文章があるんです。

それによると、
“木綿の「唐草風呂敷」を最初に作ったメーカーは定かではないが、明治30年から40年にかけて作られるようになり、大正中期に大量生産されるようになった”そうです。

なぜ唐草模様かというと、
風呂敷の模様はもともと江戸時代には植物をモチーフにするものが多くて、
それに縁起の良さが重視されるようになったので、
吉祥紋様のひとつ唐草は、
“四方八方に伸びていくつるが長寿や延命を象徴し、ひいては子孫繁栄につながる”と受け止められて普及し、
どこの家庭にもあるようになったそうです。

そこで、
手ぶらで入った泥棒が、
“タンスの一番下の段に入っている大判の「唐草風呂敷」に盗んだ荷物を入れて運び出していたわけだ。誇張はあるが、「唐草風呂敷」を使う泥棒のイメージは、こうした世相が面白おかしく伝聞された結果かもしれない”とのこと。

説得力がありますよね。
もう、これを定説にしてもいいくらい。

どうして、
「風呂敷」かということも、
書かれていて、
室町時代に、
“将軍・足利義満は京都の室町に大湯殿(おおゆどの)を建て、諸国の大名を蒸気風呂に入れてもてなした。大名たちは脱いだ衣服を取り違えないよう家紋を付けた布で包み、風呂から上がった後はこの布の上で身繕いをしたという”ことが起源となっているようです。

そういえば、
僕が神戸や大阪で司法担当をしていた1980年代後半から、
90年代初めは
裁判所では、
検察官は書面を風呂敷に包んで、
法廷に入っていました。

当時、裁判官が、
転勤で引っ越したときは、
官舎の隣近所への、ご挨拶の品の定番のひとつが風呂敷だとおっしゃっていた記憶がありますから、
今はどうか知りませんが、
司法の場でも重宝されていたようです。

唐草模様の画像は「FLAT DESIGN:手書きのフリー素材、かわいいイラスト&ベクター素材のサイト」からいただきました。

2015-05-21

あのマントはどこへいったのか?

きょう(2015年5月21日)は代休です。

ここ3年くらい、
土曜か日曜、もしくは両日とも仕事っていうのがほとんどなので、
木曜に代休を取っていたら、
毎週の定休日状態になっています。

本日は晴天で、
暑くもなし寒くもなし湿気もなし、
という大阪には珍しく、いい塩梅(あんばい)の日でした。

朝に月1回の定期的な病院通いっていう、
年寄りくさい野暮用を済まして、
球(たま)遊びをしました。
気持ちのよいお天気を楽しんだわけです。

球遊びって、
ゴルフとかじゃないですよ、
もちろん、
パチンコでもない。

僕は両方ともしません。

かといって、
ビリヤードというような、おしゃれなもんでもありません。
パチンコもそうやけど、
天気に関係ないし…。

じゃぁ何をというと、
市民公園でバスケットボールをやったんです。

とはいえ、
ゲームをしたわけじゃなくて、
ひとりでゴールにシュートを撃つという地味な遊びなんですけどね。

ボールは持っているんで、
100円ショップで買った、ちょうどいい大きさのチャック式の手提げ袋に入れて公園に行ったわけです。

たぶん、おっさんがバスケットボールを持ってウロウロしていると思う人は少ないでしょから、
スイカか何かと勘違いされたかもしれないです。

それはまぁどうでもいい話。

土曜とか日曜とかだと、
昼前はバスケットゴールで遊ぶ小学生や中学生がけっこういますけど、
平日休みのいいところは、そこ。
遠慮なく使えます。
これが、そのバスケットボールのゴール。ただし撮影は2013年5月23日です。
ただ、赤ちゃんとか、幼稚園や保育所に通う前の幼児をつれて公園にいるお母さんたちが露骨に警戒するのがプレッシャーですけどね、ハハ(笑)。半ズボンに、ダボシャツみたいな感じだったのも良くなかったな。芦屋雁之助演じる山下清が無駄に活動的になった感じでしたね。

その風体で、
ドリブルシュート、フリースロー、ジャンプシュート…。
30分間やり続けました。
周囲の状況は、
もっとやっても警察に通報されるような空気ではありませんでしたが、
僕に問題がありました。
大した運動じゃないはずだし、
歩くのなら3時間ぶっ通しでも平気なのに、
バスケの場合、
ふだん使わない筋肉を使うし、
跳ね返ったボールをひろうために、
走り気味になるせいか、
息は上がり、
足は上がらなくなってきました。

ちなみに僕は中学時代はバスケ部でした。
(まだ3ポイントシュートがない時代です)
高校はハンドボールで、
大学では1回生の体育でバスケを選びました。
(このときもまだ3ポイントシュートはなし…)

で、
そのあとは雑用やらを済ませて、
今晩は家で、
うまいビールを呑んだわけです。

もう、ここまでで充分に長いんですけど、
これからが本題の入り口です。

タイガースとジャイアンツのTV中継を見ながら、
空豆の塩茹で、コロッケなんかでビールをごくごく、
途中から「極上宝焼酎 25°」紙パック入り(900ml)を炭酸水で割ってポッカレモンを入れてグビグビやっていると、
雷蔵くん(ネコ、サバトラ、♂、2歳)が膝の上に乗ってきます。
ネイビーとグレーのボーダー柄の室内用ハーフパンツをはいた僕の膝に乗る雷蔵くん=2015年5月21日
 これはいつものことで、
膝の上に乗ってきては、
僕にしがみつくようにして、
右手で僕のアゴをチョンチョンとつつきます。
で、僕が顔を近づけると、
それまで、自分のお尻をなめていた舌で、
僕の唇をペロペロしてくれます。

これはマッサージをしてくれっていう催促でもあるわけで、
全身を頭や首周りをなでてやったり、
腰のあたりをもんでやったり…。

すると、
ノドをゴロゴロ鳴らして、
笑ったような至福の表情になり、
「オッサン、腕上げたやないかぁ、エエど、エエど」という感じで、
また、僕の唇をなめてくれるわけです。

その間、僕にしがみつくような姿勢なので、
こちらも雷蔵くんのをなぜたり、もんだりしていないほうの左手で支えています。

するとどうなるか…。

酎ハイも呑みにくいし、
アテもつまみにくい…。

お待たせしました。
ここからがきょうの本題、本番です。

雷蔵くんの相手をしながら、
赤ちゃん用の抱っこヒモがあれば便利かなと思ったわけ。

でも、風呂敷で代用できる!とひらめいたんです。

ものすごく名案だと自画自賛したのですが、
それも一瞬…。

ウチで風呂敷なんてものを見た覚えがないことに気づきました。

少なくとも、
僕が中学、高校くらいまでは、
「包む」といえば、
風呂敷でした。

もう家庭の必需品というよりも、
箸とか茶碗なんかと同じレベルで、
自然に家にあるものでした。

しかし、僕が今、暮らしている家には(たぶん)ありません。

幼稚園や小学校のときのチャンバラごっこや、
「月光仮面」系及び「黄金バット」系の「ごっこ」には、
マントとしても必須アイテムでした。

僕と同世代のオッサンのアルバムには、
風呂敷のマントをつけて、
駄菓子屋で買うか、
父親のをこっそり持ち出すかしたサングラス姿、
おもちゃの刀か拳銃を持った姿の幼いころの写真が必ずといっていいほどあるはず。

いつ頃からなんでしょう、
風呂敷をマントにして遊ぶ子供を見なくなったのは…。

そもそも最近のアニメや特撮もので、
マント姿のキャラクターはいないような気もするし…。

それにしても、
風呂敷って最近みませんね。

どうしてるんでしょう。

元気にしてるんでしょうか…。

調べてみようと思っています。

2015-05-20

「公害」の原因は親のしつけの悪さ?


この間、真っ昼間に大阪・千日前通の歩道を、

難波から日本橋の方へ東に向かって歩いていたら、
トラックの運転手らしき40歳くらいの男が車道脇の植え込みみたいなところに入って、立ち小便をしていました。

車道に背を向けていたんで歩道からは局部がまる見え…。

運転しながらよほど我慢ができなくなったのでしょうか…。

そうならば、もっと遠慮気味にやればいいのに、
堂々としていましたから、
この男には日常の習慣なのかもしれませんが、

最近の日本では珍しい光景です。

1990(平成2)年に祥伝社から刊行され、
93年に集英社文庫になった『毒舌 仏教入門』という今東光さんの著書があります。

この本に「日本人くらい行儀悪く立ち小便をする人種はおまへんのやで。外国へ行くと、残念ながらけったいなオッサンでも立ち小便はしていません。これはお出(い)でになればわかります。ほんとに口惜(くや)しいほど、あいつらは……」という一節があります。

今の若い方が読むと違和感を覚えるのではないでしょうか。
確かに、今でも立ち小便を堂々とやっていオッサンがいないことはないですけど、
酔っぱらいなんかがほとんどですよね。

でも1980年代半ばまでくらいは昼間でも、
やっているオッサンが極めて珍しいとはいえないのが実情だったような気がします。

少なくとも今よりははるかに多かった。
公衆トイレの整備が進んでいなかったことも理由のひとつなんでしょうけどね。

東光和尚は、この立ち小便の問題を公害の原因と絡めて語っておられます。

立ち小便の原因をたどれば、
親の教育が悪いからだ、とおっしゃっています。
つまり、子供が「おかあちゃん、おしっこ」というと、
子供だからというんで、
「そこでしときなさい」というような習慣がダメなんだというわけです。

東光和尚によれば、
公害も人間のしつけの問題だと断言し、
「しつけというのは、世の中、自分一人で生きているわけじゃない、人の迷惑になることはしちゃいけないっていうことでね。それが最低の社会人としての条件で、その先で人のために何をするかということになる」と説きます。

ものすごく当たり前のことなんですが、
某国からの観光客が街中で、
子供に立ち小便をさせたとかいう批判や、
原発はトイレのないマンションだ、といった意見が飛び交っている現代、色んな意味で示唆深いです。

もちろん、この立ち小便問題は、
地平線以外に何も見えないような大平原とか、
獣道すらないような密林の話ではなく、
人間が社会生活をおくる「まち」での云々される話ですよ。
ここで原理的すべての立ち小便が「悪」ということにすると、
また話が違ってくる。
東光和尚のおっしゃるように「人の迷惑」っていう範疇でのこと。

とはいえ、
ここの塩梅が大事で、
難しい。

地球って、つながってますからね、どのどの地域も。

で、
確かに経験的に沿って考えてみれば、
日本では、
立ち小便の減少に比例するように、
公害・大気汚染問題も解決してきたという気がします。

もし世の中の「汚れ」がが目立ってきているのだとしたら、
親のしつけが原因なのでしょう。

親の責任にすると、
「生まれてすぐ親を亡くした子供はどうなる!」
「社会の問題を家庭に押し付けるな」
…といった意見が聞こえてくるような気がしますが、
万が一、そのような声が本当にあるならば、
僕には心の貧しさを浮き彫りにしているように思えます。