日本や宗教、歴史への思いなどを書いた「十六」の文章を収録している。
その中に1987(昭和62)年に発表された「大阪の原形」と題された一文がある。副題は「日本におけるもっとも市民的な都市」という。
大阪市浪速区生まれの司馬さんは学徒動員で入隊していたときと、
産経新聞京都支局などで新聞記者生活をしていた数年間以外、
そして終の棲家となる東大阪市の自宅に転居するまでは、
大阪市内で暮らした。
この文章は出だしで、
「私は大阪に生まれた。
以降、六十四年間もこの街に住んでいる」
…とあるが、
「いまの大阪市が所在するあたりは、古代…」といった表現でもわかるように、
「原形」が論究されている「大阪」とは現在の大阪市域のこと。
「四天王寺」が造営された593年ごろから、
明治時代までの大阪の歴史的ななどに焦点を当てて、
この都市のかたちを探っている。
たとえば、転換点とは石山本願寺の“落城”(1580年)や、
豊臣秀吉によって日本の経済の中心地となったことなどである。
その流れのなかで徳川時代に、
ひとびとが独立心を共有しあっていたことを重視する。
幕府の直轄領で、
「北組」「南組」「天満組」からなる「大坂三郷」で形成され、
市政実務のほとんどは自治組織が受け持っており、
168あった橋のうち、
公(国)によって建造されたのは12だけで、
残りはすべて民間からの寄付で建造・維持する「町橋」だったという。
さらに町人による学校「懐徳堂」(1724-1869年)も作られ、
富永仲基(1715-46年)や山片蟠桃(1748-1821年)といった思想家も学んだ。
富永仲基は大乗仏教(日本仏教)は真に釈迦の教えを源流としているか、
ということを考察し、
論理的に釈迦の教えではないと結論づけた。
その方法論は現代でも通用する先駆性があったことは、
疑いの余地はなく、
山片蟠桃も日本が鎖国していた当時にすでに地動説をとなえたことで知られている。
余談だが、
2年ほど前、
学生時代から僕が行きつけにしている京都・出町柳の居酒屋で、
偶然、隣にすわった英国人男性は、
この大乗非仏論を表した富永仲基の著書『出定後語』の英訳者だった。
この方から、
この本のレベルの高さをあらためて教えられたことがある。
司馬さんは、
この2人の登場にも象徴されるように、
日本の近代は明治維新(1868年)によって開幕したのではなく、
18世紀からすでに始まっていたと考える。
しかし、歴史の流れのなかで、
明治維新早々の大阪は、
その先駆性が無視された。
制度の改革のなかで「灯の消えた家と同然となった」と司馬さんは表現する。
その後の大阪は、
「ほとんど建てかえられたのも同然」で、
「その努力は政府によるものというよりも、このまち自体の工夫と努力によるものである」とする。
大阪には「市民」が独立心を発揮して、
工夫と努力で事態を改善する底力があるようだ。
そしてその力は、この地に今も受け継がれていると信じる。
制度の変革よりも、
工夫と努力で活きる町なのだ。
「都構想」は「市民」の工夫と努力を復活・醸成させる土壌となり得るのだろうか。
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