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2015-06-02

「消費税」と「戦争」

ちょうど「失われた20年」の始まりのころの1994年。その年の11月の「週刊プレイボーイ」(1日号~15日号)に掲載された吉本隆明の「日本における革命の可能性」というインタビューが大幅改稿されて、
『わが「転向」』という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを説明し、
そのうえで、

欧米の方法は
「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。

つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と解説。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
まだ、産業革命を引きずっているような時代錯誤の声も聞こえてきますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
権力者にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題からそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。
権力者が称賛を浴びる機会なんて極めて少ないのが現実ですし。


権力者は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力者」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力者」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
権力が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力者」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを示したうえで、
欧米の方法は
「こういうやり方には「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。
つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と説明。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
産業革命時代と同じような考えを堅持しているのではという「声」を聞くこともありますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
「権力」にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題から眼をそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。

「権力」は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
「権力」が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。

2015-05-28

大革命の条件


NHKの大河ドラマ『花神』は、

1977年1月2日から12月25日までの間、
全52回にわたって放映されました。
僕が中学2年から3年にかけてのことで、
たぶん全回を視聴しました。

それまで大河ドラマをみる習慣はなくて、
これが初めて。
その後も熱心に視聴した記憶はないし、
今も観ていない。

そんなこともあって、
「大河」のなかでは僕にとって、
比類なき名作ということになっています。

主人公は靖国神社の参道中央にある像が立っている大村益次郎…元の苗字・通名は村田蔵六です。

どこが魅力的だったのか。
これを時系列も含めて説明していくと長くなるので、
それは省略。
簡単にいうと、
大村益次郎という人物の合理性、
機能美を体現したかのような生き方にとても関心を持ったからです。

この日本近代兵制の創始者の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『花神』(新潮文庫/上・中・下)が原作です。

その原作のなかに、
「大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者である、この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい」
…という一節があります。

僕は2003年4月から半年間、
会社の「国内留学」制度を利用して、
インターネットと報道メディアの将来について、
当時、大阪・吹田の万博公園にあった民間の研究・教育機関「インターメディウム研究所・IMI『大学院』講座」に通いました。

そのときに読み返したのが『花神』で、
引用した部分がとても示唆深く、
印象に残ったのです。

印象に残ったという、
間接的な表現でなく、
もっと端的にいうと、
三番目に登場する「技術」は、
現代では「IT」だと確信に近い推測をしたんです。

IMIに通うかたわらで、
慶応義塾大学が中心になってインターネットに公開していた「SOI」でも勉強していました。
「日本のインターネットの母」と言われる村井純先生の講義は、
ノートをとりながら、ほとんど視聴していました。

ここでインターネットの…
・「努力するけど保証しない」というベストエフォートの考え、
・中心がなくて、どこかで分断されても、つながる仕組み、
・自律・分散・協調の精神
…といったものが「革命」の原動力になると感じました。

当時はまだブログという言葉が一部で出回り初めた頃で、
YouTubeのサービス開始は、その3年後、
twitterやFacebookもありませんでした。

で、
現在…。
「アラブの春」などにも明らかなので、
もう説明は不要ですけど、
「IT」と、さまざまな「革命」は無縁でありえません。

この状況を後戻りさせることは不可能でしょう。

そして僭越ながら、
司馬遼太郎の言葉に付け加えさせていただくならば、
現在は、
革命のプロセスで役割を分担して時系列で登場していた
「思想家」と「戦略家」と「技術者」が、
同時に登場し、
またその役割をひとりで担うこともできる時代となっています。

ただ、現在の日本の教育のなかで、
そのような人物が生まれるか、というと、
否定的な見解を持たざるを得ないのですけれど。