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2015-06-20

予防策と解決策は違います

“苦心して学徳をつみかさねた人たちは 「世の燈明」と仰がれて光りかがやきながら、 
闇の世にぼそぼそとお伽ばなしをしたばかりで、 
夜も明けやらぬに早や燃えつきてしまった”
オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』(小川亮作訳/岩波文庫)から

とにかく不安をあおったり、
けし粒のような心配のタネをバスケットボールほどに拡大したりして、
それがいかに正しい警鐘であるかを叫ぶ人種がいますよね。

経済学者なんて、
その筆頭かもしれません。

ものすごく涼しそうな顔をして、
他人事のように悲観したり、
楽観したり…。

たとえば、
ある一つの問題が「A」か「B」、
いずれかの結果になることが予想された場合、
それぞれの帰結を推察する2つの陣営が喧々諤々の議論をします。
この両者は対等に見えますけど、
そうじゃないですよね。
悲観的な予想をするほうが有利です。

なぜなら、
楽観的な見解や変化なしという予想は、
その通りになっても、
あまり評価されません。

でも、
「悲劇」の予言が的中すると、
「あぁ、すごい!」となり注目が集まることは容易に想像できますよね。

あんまり繰り返しすぎると、
「オオカミ少年」とみなされて、
相手にされなくなりそうですけど、
結果がどうであれ、
責任を取らされることがないと、
意見を主張できる土俵からは撤退しないので、
とにかく小声でも、
悲観的なことを言い続けるのが得策になります。

すると、
どうなるか…。
まぐれ当たりというのがありますよね。
そうなると、
それまでの当たり外れの確率は無視されて、
「予言」が脚光を浴びることになります。

…と、考えれば、わかりやすい。

でも、
何だか違和感を覚えませんか。

僕は覚えます。

その理由を探ってみたら、
巷の投資セミナーなんかの博打のようなケースを別にすれば、
最悪の「悲劇」って、
ほとんど起こらないし、
起こっても、その被害が甚大であったとしても、
それに起因する痛みに関係のない人々には、
「悲劇」はなかったも同然だからです。

「悲劇」の予想に共感していた人々は「それ見たことか」と、
「楽観」予測派を攻撃しますし、
予想した本人をリスペクトして、
さらなる「予言」を求めます。

それはそれで「悲劇」を予想したヒトのメリットにはなるんですけど、
「悲劇」は起こってしまえば、
処理や解決をしないといけない。
でも、
「悲劇」を予想した人間は「解決策」まで持っていないことが多いのが現実です。
「予防策」は持っているかもしれないけれど、
それは「悲劇」のあとでは「解決策」にならない。

ただ「予防策」を「解決策」と混同する人々は必ずいて、
解決のために予防を主張する声が必ず出てきます。
それは過ちを繰り返さないということには効果的かもしれないけれど、
拘泥しすぎると、
直面する問題の解決の妨害にもなりかねない。

さらに深刻なのは、
問題の解決が放置されると、
象徴化して、
過剰な「予防策」が支持を集めます。

なぜなら、
「悲劇」の影響への脅威が多くの人々に拡大していくからです。

たぶん、そんなときに、
過激な「予防策」を「解決策」のように提示できる人間が現れれば、
その人物は独裁者になることができるのでしょう。

何が言いたいのか…。

水が高きから低きに流れるように、
必ず訪れる「悲劇」に対しては、
影響を最小限に抑えるために、
まず現在、できることを着実にしなければならないということです。

たとえば、
高齢化や少子化の進展に伴う社会保障費の増大による国の財政の悪化。
バカみたいなインフレが起これば、
数字的には解決するんでしょうけど…。
それは回避しなければならない。
そのためには、
増大していく医療費を抑制するのがかなり効果的です。
2000年代の当初は、
医療関係者からは、
「日本の医療費は公共事業支出に比べれば小さい」という指摘がありました。
しかし、
一般会計ベースで、
歳出を見てみると、
2001年度は公共事業が12%を占めていたのに、
2013年度は6%です。
一方、社会保障関係費は21%から31%に増大。
金額ベースでみれば、
17・6兆円から29・1兆円となり、
このなかで一番増加率の高いのが、
3・7兆円から7・3兆円になった医療費です。

医師不足も叫ばれていますから、
まず、病院に行く回数や投薬量が減るような施策が急務です。
もう何年も同じ薬を飲み続けているのなら、
処方に必要な診察を減らすとか、
コストの低い代替医療の活用など、
とにかく病院へ行く回数が減るようにして、
薬も減らす。
できることはいくらでもあります。
それを阻んでいるのは何なのか。
海外の医療実態とも比較して、
すぐにできることはたくさんあります。

2015-05-31

病と政治


「高橋和巳(たかはし・かずみ)」と耳にしても、

30代より下の年代でピンとくる方はほとんどいないかも。

ジャイアンツの投手だったヒトじゃないですよ。
あれは、
「高橋一三」

小説家で中国文学者で京都大学の助教授もつとめました。
1971年、癌(がん)で亡くなりました。
享年39ですから、早逝といってもいいと思います。

小説『日本の悪霊』は黒木和雄監督で映画化もされました。

全共闘世代…いわゆる団塊の世代の支持を得た人物で、
僕が同志社に通っていた1980年代前半でも、
それなりに読まれていたという印象があります。
ただ、
毎日、ヘルメットをかぶった学生がキャンパス内でデモをしていたような“ガラパゴス”環境だったので、
世間一般の大学の事情とは違うかもしれません。

『高橋和巳エッセイ集「孤立無援の思想」』(旺文社文庫)に、
「思うに内臓の一部分、たとえば心臓がむやみに気にかかるという状態は、その人の心臓が病んでいることを意味するように、わたしたちにとって、政治のことが気懸りなのは、人間が人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分があることを意味する」
…という一節があります。

そして…
「しかし、もし幸運にも病苦を忘れうるなら、私は必ずしもその忘却や無関心を非難はしない」
…と続きます。

1963年に書かれています。
この文章に出てくる「政治」は、
別の言葉に言い換えられるでしょう。
たとえば、「政治」と不可分ですけどれど、
「国際関係」ですね。

もっと具体的な例では「福島第一原発事故」もそうでしょう。

ただ、高橋和巳はここでは、
「政治」に限定しています。
そのうえで、
「最大多数の最大幸福を意志する政治」は、
「百万人が前に向って歩きはじめているとき」に、
顔を覆って泣いて、その“行進”に参加しない脱落者を見捨てるが、
「文学者」は、
百万人の隊列の後尾で、
(理由はなんであるにせよ)「うずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである」と断言しています。

本来の高橋和巳の意図は別して、
僕にとって、
この文章の示唆するものは、

おおまかに2つあります。

「政治」の問題を解決するのは、
緊急避難的な弥縫策である場合が多く、
問題が解決したと見えても、
副作用があったり、
新たな火種を生んだりして、
人間の根源的問題は残るということ。

そして、
もうひとつは、
本当に病んでいる部分があるのに、
別のことに気を取られたり、
痛みが現実になっていなかったりするため、
忘却や無関心が起こるということ。

この2つを「文学者」ではない僕が、
自分なりに総合すると、
「政治」で改善できるのは弥縫策が奏効する問題がほとんどなので、
「政治」に依存せず、
「個人」が自律的に解決していくことが大切だけど、
今、自分に痛みがないからといって、
「政治」が解決できる問題に無関心であったり、
忘れてしまったりしてはいけないということ。

そして自分の身体を気遣うように、
「人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分」を意識することが大切なんでしょうね。

ちなみに、
床屋談義が盛り上がることを、
政治への関心の高まりと誤解してはいけないような気がしています。
先の「大阪都構想」の住民投票への議論は、
床屋談義の盛り上がりにすぎなかったかも。
「変化するか、しないか」ではなく、
「どのように変化するか」かが問われたのに、
投票が終わってみれば、
みんなが傍観者になっているような気がして…。

痛みのない変化はない。

「病」からの回復には痛みはつきものなんだと思います。