2015-07-22

「ジャズでなくJAZZを」關基久さんを偲ぶ

キーボード、ベース、サックス、トロンボーン…。出棺はJAZZで
JR西宮駅を出て梅雨が戻ってきたような蒸し暑さのなかを傘をさして、葬儀が行われる西宮山手会館へ向かっているのに、
大阪・梅田のジャズクラブ「ロイヤルホース」に向かっているような錯覚におちいりました。

オーナーの關基久(せき・もとひさ)さんが「いらっしゃい。雨のなかスンマセ~ン」と笑顔で迎えてくれるような気になったからです。

しかし、葬儀場に着いて遺影を見て現実に戻されました。

「やっぱり本当やったんや…」

訃報に呆然したのがきのう(7月21日)の早朝。出勤前でした。

亡くなったのが20日で、
翌21日が通夜、22日が葬儀とのことでした。

17日にベトナム旅行から帰国されてから、
体調を崩していたのに仕事をされていて、
心不全で亡くなったそうなんです。
亡くなる前日朝までFacebookで、
9月7日に開くライブの告知をされていたんです。

歌手のCHAKAさんも友人代表のひとりとして、
お別れのあいさつをされました。
「關さんに迷惑をかけないように頑張ってきたけど、
もっと甘えればよかった」という言葉が印象に残りました。

僕が初めてロイヤルホースに行ったのは1985(昭和60)年の4月です。
入社した直後、、
当時、梅田にあった大阪本社で研修中で、
同期のメンバーと一緒でした。

確か、次の日が日曜日だったと思います。
まだ週休2日制が定着せず、
役所も土曜は半ドンだったころです。

当時のロイヤルホースは、
飲食がメーンで、
音楽はBGMに近いかたちでしたから、
演奏中に客同士が話していても大丈夫でした。

でも、CHAKAさんが歌い始めた途端、
静かにせざるを得ないというか、
耳が釘づけになったというか、
スピード感があるのに、
声の隅々にまで「気」が行き届いて、
すべて自分のコントロール化に置いているような
完成度の高さに驚きました。

ただ当時はそれほどプロ歌手の生の歌なんて、
それほど聴いたことがなかったので、
「やっぱりプロって凄いなぁ」という感激だったのですが、
その後、他のプロの歌声を生で聴く機会があるごとに、
「プロ歌手がじゃなくてCHAKAが凄かったんや」と理解しました。

1990年ごろまでは機会があるたびに行っていたのですが、
運営形態がライブ中は音楽を聴くという現在の普通のライブハウスのスタイルになってからは、
行かなくなってしまいました。

また足を運ぶようになったのは、
僕がトロンボーンを始めた2007年ごろからです。

トロンボーン奏者が出演するときだけなんですが、
再訪の最初は中川英二郎さんとジム・ピューさんのライブ。「J.Jジョンソンも真っ青だろうな」と素人ながらにスピードに圧倒されました。
ものすごく速いうえに、
2人の音がシンクロするんですもん。
もう曲芸のレベル…。

そのほかは向井滋春さん、村田陽一さん、Tommyさん…。たぶん、向井さんがいらしたときは“再訪”以来、ほとんど行ってて、たぶん、行けなかったのは2回だけだと思います。

で、
いつのころからか、何をきっかけにしたかも忘れたんですけど、
關さんとお話しするようになりました。

社会人になって初めて来たとき、
CHAKAさんのライブを聴いて、
ものすごく感激したという話をしたら、
とても喜んでくださって、
CHAKAさんのことを絶賛されていたのを思い出します。

葬儀でCHAKAさんのお別れの言葉を聴いていたら、
そのときの關さんの笑顔を思い出して目頭が熱くなりました。

生演奏にこだわり、
「カタカナのジャズではなくJAZZ文化を守っていきたい」とおっしゃっていたことも思い出しました。

大学2年だった1977年6月から店を始めて…享年59。

早すぎます。

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