自分の行動を選ぶ場合の基準として、
それをやれば後悔するか、どうか…というのがあると思います。
たとえば、
お酒を呑んでいて、
これ以上、呑むと二日酔いになるのは分かるわけです。
でも、呑んでしまって、、
翌日、3軒目はやめといたらよかったなぁ、とか、
お酒を呑んだあと、
ラーメンを食べると、
体に良いとは思えませんし、
太るし、
翌日、二日酔いに消化不良が加わって、
食べなければよかった、とか…いうケースですね。
もう後悔は必然なのに、
やってしまう。
不思議です。
ですから、
ある行動を選択すれば、
後悔するということが確実ならば、
やめておくべきことは言うまでもありません。
当たり前の話です。
考えてみれば、
こんな明確な基準があるのに、
なぜ、それをもとにした行動の選択が簡単にできないうえ、
選択を間違うのか…、
それが不思議なくらいです。
つまりまぁこれは、
意志の力、
克己心の問題ですよね。
はい、わかっています。
難しいのは「後悔するかもしれない」という場合です。
「かもしれない」という不確定性が大きいことについて選択を迫られたときですよ。
これにはいろんなパターンがありますよね。
たとえば、
もうこれ以上、呑んだら、
二日酔いして後悔するのはわかっているけれど、
めったに呑めない珍しいお酒を出されて、
呑まなければ、後悔するかもしれない場合とか…。
あっ、これはもう味がわからなくなっているから、
呑まなくてもいいかも…。
う~ん、
別の例を探すと…。
たとえば、
命にかかわるかもしれない病気の治療方法の選択で、
ものすごく高価な薬を飲んだら、
完治するかもしれないけど、
副作用が強いうえに、
治ることが確実でない場合。
もしかしたら、
その薬を服用すると、
後悔するかもしれないけれど、
服用しなくても後悔するかもしれないという状況ですね。
つまり、リスクをどう考えるか。
絶対的な後悔が確信されることは、
回避するのが当然です。
しかし、不確定で確信できない場合はしかり。
そこに責任が絡んでくるとまた、
ややこしい。
結果的に後悔はしても、
個人として結果の責任を負わされるのを回避しようと、
画策すれば、
原則論に沿うのが一番、正しい選択になります。
ものすごく単純に言えば、
「平和」「平等」「護憲」「弱者救済」「争いの否定」を軸にして、
物事を語っていれば、
それは「正論」で、
異論は邪気が絡む、こじつけとか、
利己心を源にする考えとして受け付けなければいい。
無難です。
さしずめ、
日本の状況で考えると、
保守勢力の主張はほとんど間違っていて、
中国、韓国、北朝鮮の言うことが概ね正しいと主張するのが一番安全ですよね。
そのような考えを信条として持っていて、
批判はされても、
命の危険は少ない。
でも、
万が一、
日本が今後、中国の傘下に置かれるようなことになったら、
「おまえはこういう考えを流布していたよね」ってことで、
無難ではない反対の思想・信条を持っている人間は肉体的に粛清される可能性もありますから、
とりあえず、中国の主張に真っ向から反対しないのが安全です。
第二次世界大戦で敗戦国になって、
戦時中のスタンダードが否定された“教訓”もあります。
…というわけで、
きょう(2015年5月17日)は、
大阪都構想の是非を問う住民投票の日です。
これこそ、
どちらを選んでも「後悔するかもしれない」象徴的な選択という印象もあるのですが、
もしかしたら、
どちらかが選ばれることによって、
明らかに、
後悔するというよりも、
自分自身が「損」をする、
つまり、
選択の結果によって、
後悔というよりも、
自身の利益・不利益が明確な人たちばかりの声が大きいような気がします。
つまり、
ほとんどの人間には、
結果にかかわらず、
実質的な影響の少ないことに、
巻き込まれているだけかもしれません。
そのような改革は、
結果も期待してはいけないんでしょうね。
0 件のコメント:
コメントを投稿