NHKの大河ドラマ『花神』は、
1977年1月2日から12月25日までの間、
全52回にわたって放映されました。
僕が中学2年から3年にかけてのことで、
たぶん全回を視聴しました。
それまで大河ドラマをみる習慣はなくて、
これが初めて。
その後も熱心に視聴した記憶はないし、
今も観ていない。
そんなこともあって、
「大河」のなかでは僕にとって、
比類なき名作ということになっています。
主人公は靖国神社の参道中央にある像が立っている大村益次郎…元の苗字・通名は村田蔵六です。
どこが魅力的だったのか。
これを時系列も含めて説明していくと長くなるので、
それは省略。
簡単にいうと、
大村益次郎という人物の合理性、
機能美を体現したかのような生き方にとても関心を持ったからです。
この日本近代兵制の創始者の生涯を描いた司馬遼太郎の小説『花神』(新潮文庫/上・中・下)が原作です。
その原作のなかに、
「大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。三番目に登場するのが、技術者である、この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい」
…という一節があります。
僕は2003年4月から半年間、
会社の「国内留学」制度を利用して、
インターネットと報道メディアの将来について、
当時、大阪・吹田の万博公園にあった民間の研究・教育機関「インターメディウム研究所・IMI『大学院』講座」に通いました。
そのときに読み返したのが『花神』で、
引用した部分がとても示唆深く、
印象に残ったのです。
印象に残ったという、
間接的な表現でなく、
もっと端的にいうと、
三番目に登場する「技術」は、
現代では「IT」だと確信に近い推測をしたんです。
IMIに通うかたわらで、
慶応義塾大学が中心になってインターネットに公開していた「SOI」でも勉強していました。
「日本のインターネットの母」と言われる村井純先生の講義は、
ノートをとりながら、ほとんど視聴していました。
ここでインターネットの…
・「努力するけど保証しない」というベストエフォートの考え、
・中心がなくて、どこかで分断されても、つながる仕組み、
・自律・分散・協調の精神
…といったものが「革命」の原動力になると感じました。
当時はまだブログという言葉が一部で出回り初めた頃で、
YouTubeのサービス開始は、その3年後、
twitterやFacebookもありませんでした。
で、
現在…。
「アラブの春」などにも明らかなので、
もう説明は不要ですけど、
「IT」と、さまざまな「革命」は無縁でありえません。
この状況を後戻りさせることは不可能でしょう。
そして僭越ながら、
司馬遼太郎の言葉に付け加えさせていただくならば、
現在は、
革命のプロセスで役割を分担して時系列で登場していた
「思想家」と「戦略家」と「技術者」が、
同時に登場し、
またその役割をひとりで担うこともできる時代となっています。
ただ、現在の日本の教育のなかで、
そのような人物が生まれるか、というと、
否定的な見解を持たざるを得ないのですけれど。
今年1月、にスイス・チューリッヒで開かれたFIFA(国際サッカー連盟)主催のバロンドール表彰式で、
サッカーライターの賀川浩氏が日本人初となるFIFA会長賞を贈られました。
webニュース「産経WEST」(2015年5月5日【サッカーなんでやねん】)によると、ジャーナリストとして世界で初めてでもあったそうです。
昨年12月に満90歳になられた賀川さんは元サンケイスポーツ編集局長で、
サッカー・ワールドカップ(W杯)の1974年・西ドイツ大会(当時)から2014年のブラジル大会まで計10大会を現地取材されました。
会長賞は、そんなサッカー界への功績が評価されたようです。
今も現役で、
まさに「生きる名人」。
お手本にさせていただきたい方で、
あやかりたい。
昨年8月2日、神戸市立中央図書館で、
賀川さんが開いたW杯ブラジル大会の取材報告会は、
僕も拝聴し、
有り難いことに、ご挨拶までさせていただきました。
やはり、
好きなことを極めてきた人物独特の自由闊達さを感じました。
そのときはまだ「会長賞」は噂にものぼっていないような時期でしたけど、
もちろん、「賞」や「栄誉」を目的に活動されてきたのでありません。
やり続けることができた結果の受賞と栄誉です。
だから体調管理も必要だし、
90歳まで健康に活動できる「運」も関係してくるでしょう。
「神さま」も味方につけないといけないわけです。
その賀川さんの著書に『90歳の昔話ではない。 古今東西サッカークロニクル
』があります。
90歳の「現役記者」ともなれば、
個人的な回顧でも充分に読み物になるのでしょうけど、
この本は違います。
序章で、ご自身の「記者稼業」スタートについて、
「当時の産経新聞編集局は、運動部の向こうの文化部に司馬遼太郎がデスクで座っていた頃。運動部にも社会部にも司馬さんと張り合う文章家のデスクたちがいたのも、大きな刺激だった」と書かれているくらいで、
懐古趣味的な部分なくて、
まさにタイトル通り「昔話ではない」。
サッカーの年代記や、
歴代の国内外の選手、
ご自身が取材したW杯について、
客観的な裏付けをもとにした分析などが、
綴られています。
そこには年齢を越えた普遍的ともいえる表現があります。
もちろん経験があっての結果なのでしょうけど…。
それだけに、
この本のなかで、
第三者が賀川さんについて書いた部分は貴重ともいえます。
そのひとつが国吉好弘さん(週刊サッカーマガジン編集部スーパーバイザー)が書かれた「『あとがき』にかえて」。
2002年の日韓W杯開催を目前に控えて、
別冊の発行など過酷な作業が予想された週刊サッカーマガジンの編集部が“本番”前に壮行会的なパーティーを開いたときのこと。
その席に参加した賀川さんは激励のスピーチの最後に、
「仕事が忙しくて、死んだ者はいない」とおっしゃったそうです。
「大変だけど、頑張ってください」というような言葉を漠然と予想していた編集部員たちは、
「肩透かしを食ったというか、妙に納得させられた」といい、
「そりゃそうだよな」という気分で肩の力が抜けたそうなんです。
そのお陰もあってか、
無事に乗り切ってW杯閉会後、通常の生活に戻ったそうなんです。
「仕事が忙しくて、死んだ者はいない」という言葉には異論がある方も少なくないと思います。
「過労死はどうなるんだ」というような指摘ですね。
でも、過労死は、
過酷な勤務・労働が心労になって誘引されるような気がします。
過労死は不幸な「労災」なのでしょう。
賀川さんにとって「仕事」は「労働」とは別のようです。
もちろん無茶な上司の命令に従ったり、、
生活のためだけに、こなしたりするものではない。
だから忙しくても心労が蓄積しないということなのかもしれません。
「仕事」をして生きていきたいと切に思います。
元産経新聞記者で「国民的作家」ともいわれた司馬遼太郎さん(1923-1996年)の著書のひとつに『十六の話』(中公文庫)がある。
日本や宗教、歴史への思いなどを書いた「十六」の文章を収録している。
その中に1987(昭和62)年に発表された「大阪の原形」と題された一文がある。副題は「日本におけるもっとも市民的な都市」という。
大阪市浪速区生まれの司馬さんは学徒動員で入隊していたときと、
産経新聞京都支局などで新聞記者生活をしていた数年間以外、
そして終の棲家となる東大阪市の自宅に転居するまでは、
大阪市内で暮らした。
この文章は出だしで、
「私は大阪に生まれた。
以降、六十四年間もこの街に住んでいる」
…とあるが、
「いまの大阪市が所在するあたりは、古代…」といった表現でもわかるように、
「原形」が論究されている「大阪」とは現在の大阪市域のこと。
「四天王寺」が造営された593年ごろから、
明治時代までの大阪の歴史的ななどに焦点を当てて、
この都市のかたちを探っている。
たとえば、転換点とは石山本願寺の“落城”(1580年)や、
豊臣秀吉によって日本の経済の中心地となったことなどである。
その流れのなかで徳川時代に、
ひとびとが独立心を共有しあっていたことを重視する。
幕府の直轄領で、
「北組」「南組」「天満組」からなる「大坂三郷」で形成され、
市政実務のほとんどは自治組織が受け持っており、
168あった橋のうち、
公(国)によって建造されたのは12だけで、
残りはすべて民間からの寄付で建造・維持する「町橋」だったという。
さらに町人による学校「懐徳堂」(1724-1869年)も作られ、
富永仲基(1715-46年)や山片蟠桃(1748-1821年)といった思想家も学んだ。
富永仲基は大乗仏教(日本仏教)は真に釈迦の教えを源流としているか、
ということを考察し、
論理的に釈迦の教えではないと結論づけた。
その方法論は現代でも通用する先駆性があったことは、
疑いの余地はなく、
山片蟠桃も日本が鎖国していた当時にすでに地動説をとなえたことで知られている。
余談だが、
2年ほど前、
学生時代から僕が行きつけにしている京都・出町柳の居酒屋で、
偶然、隣にすわった英国人男性は、
この大乗非仏論を表した富永仲基の著書『出定後語』の英訳者だった。
この方から、
この本のレベルの高さをあらためて教えられたことがある。
司馬さんは、
この2人の登場にも象徴されるように、
日本の近代は明治維新(1868年)によって開幕したのではなく、
18世紀からすでに始まっていたと考える。
しかし、歴史の流れのなかで、
明治維新早々の大阪は、
その先駆性が無視された。
制度の改革のなかで「灯の消えた家と同然となった」と司馬さんは表現する。
その後の大阪は、
「ほとんど建てかえられたのも同然」で、
「その努力は政府によるものというよりも、このまち自体の工夫と努力によるものである」とする。
大阪には「市民」が独立心を発揮して、
工夫と努力で事態を改善する底力があるようだ。
そしてその力は、この地に今も受け継がれていると信じる。
制度の変革よりも、
工夫と努力で活きる町なのだ。
「都構想」は「市民」の工夫と努力を復活・醸成させる土壌となり得るのだろうか。