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2017-03-27

「森友」でかすむ「働き方」

国民的アニメ「サザエさん」で、父親としておなじみの「磯野波平」は54歳という設定だそうです。“同い年”の著名人を現時点で探してみると、ノーベル賞学者で、京都大iPS細胞研究所長の山中伸弥さんが、そのひとり。ミスター・ラグビーと称された元日本代表監督で、昨年10月に亡くなった平尾誠二さんも存命なら今年1月で54歳です。

高度成長期に幼少期を過ごした「新人類」世代に属する、おふたりの同級生たちが現役で大学に入り順調に卒業していれば、多くは1985(昭和60)年に社会人の仲間入りをしました。


電話とタバコ


戦後40年の、この年は日本電信電話公社と日本専売公社が、それぞれNTT(日本電信電話株式会社)とJT(日本たばこ産業株式会社)となって民営化されたのをはじめ、男女雇用機会均等法が成立、日本航空123便墜落事故がありました。阪神タイガースが21年ぶりのセ・リーグ優勝を果たし日本一になったのも、この年。ちなみに1月には先述の平尾さんを擁する同志社大ラグビー部が史上初の大学選手権3連覇を成し遂げています。

2017-03-26

ふたりのトランプ

DVDを買ってチャールズ・チャップリン(Charles Chaplin,1889~1977年)の「独裁者」(原題「The Great Dictator」)をあらためて観ました。

説明するまでもないくらいに、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler,1889~1945年)の独裁政治を批判したことで有名な米国映画。初公開は1940年9月のニューヨークでした。

チャップリンは独裁者とユダヤ人の散髪屋(床屋)の2役。ちなみにチャップリンの誕生日は4月16日で、同い年のヒトラーが生まれた日(4月20日)と4日しか違いません。

この作品の撮影が第二次世界大戦勃発から2週間後に開始されたことに驚きます。。ウィキペディアによると「チャップリンは後世、自伝においてホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれないと述べている」そうです。

僕はチャップリンがタイムマシーンをつかって未来に行ったか、予言能力があったのか、思いました。単に「天才」とは、そういうものなのかもしれませんが…。

2016-06-19

リアル・マーケット・アナライズに行ってきました。

きのう(2016年6月18日土曜日)に神戸国際会議場で開かれた「リアル・マーケット・アナライズ2016 in 神戸」という経済セミナーのようなイベントを拝見・聴講しました。

BS放送局「BS12(トゥエルビ)」の経済情報番組「マーケット・アナライズ」のまさに“リアル版”です。

キーワードは「停滞」


この番組出演者で、金融ストラテジストの岡崎良介さん、株式アナリストの鈴木一之さんのほかラジオ日経記者の鎌田伸一さん、大和証券投資戦略部担当部長の木野内栄治さんらによるプレゼンテーションやパネルディスカッションが行われて、キーワードは「停滞」でした。

現在の日本は「停滞時代」に入ったとしたうえで、その中で、どのように投資活動を進めていけばいいのかを探る試みです。

3時間のイベントでしたので、内容は盛りだくさんですが、要点は「円高」がしばらく続くということ。つまり停滞は「円高」が大きな要因となっているというわけです。

この点について岡崎さんを中心とする登壇者は…

2015-11-22

大阪W選と張子の虎

「十日戎」で始まる大阪の一年の祭りをしめくくることから「とめの祭り」ともいわれるという「神農祭(しんのさい)」に行ってきました。

日本の薬祖神「少彦名命(すくなひこなのみこと)」とともに、中国医薬の祖神「神農炎帝(しんのうえんてい)」をお祀りしているところから「神農さん」で親しまれている少彦名神社(大阪市中央区道修町)の例大祭で、毎年11月22、23の両日に行われています。

この「神農祭」の…というか、神社のシンボルともなっているのが張子の虎です。

詳細を知りたい方は同神社のサイトでみてください。

とにかくトラ年生まれなので阪神タイガースを応援してきた僕としては自分のためにあるような…と勝手に思っている…神社でして、神農祭にはここのところ、おまいりさせてもらっておりまして、張子の虎のついた五葉笹を毎年いただいています。

ちなみに僕は張子の虎がついた笹だと思っていたのですが、同神社のサイトによると、これは「五葉笹に付けた張子の虎」だそうで、虎がメーンのようです。

本日2015年11月22日は大阪府知事選挙と大阪市長選挙のダブル選挙の投票日。大事な時期の重要な選挙のはずなのに、何だかよくわからない不毛な選挙という印象ですけど、大阪府民である僕も投票を済ませ、去年いただいた笹…じゃなくて張子の虎を持って「神農さん」へ向かいました。


大阪市営地下鉄堺筋線・北浜駅から地上に出ると、神社の前からできた行列が堺筋をはさんで東から西に続いています。

2015-08-05

官僚は「豪放磊落」で「気さく」なんです

最近はどうだか、よく知らないけど、
新聞なんかで官僚なんかが昇進したときに、
その人柄を紹介する記事で、
「官僚のイメージとはかけ離れた豪放磊落な雰囲気」とか、
「これまでの経歴とは重ならない気さくな語り口」とかいった表現があったように記憶しています。
もしかしたら、
本当はないのかもしれませんけど、
僕の記憶にはあります。

なぜなら読みながら、
「よくもこんな原稿が活字になったなぁ」と思った覚えがあるからです。

2015-07-26

ガンジーと戦争犯罪

1914年8月4日、第一次世界大戦で英国がドイツに宣戦布告した。

当時、英国の植民地統治下にあったインドの独立の父・ガンジーは、
このときどのような結論を下したか。

蝋山芳郎訳『ガンジー自伝』(中公文庫、1983年6月発行版274~276ページ)によると、
「わたしは、イギリスに在住しているインド人は、戦争にささやかな寄与をすべきである、と思った。イギリスの学生たちは、志願して陸軍に勤務していた。インド人も、これに負けずにやるべきだった」

「戦争への参加が非殺生(アヒンサ)とけっして両立するものではないことは、わたしには全く明らかであった。しかし人間の義務については必ずしも人々に明らかになってはいないのである」

「イギリス滞在中、わたしはイギリス艦隊の庇護を受けていたし、またその武力の下に避難していたとき、わたしは、その潜在的暴力のなかに直接加わっていたのであった」
…とあります。

当時、ガンジーは英国を通じて、自身とインドの現状の改善に期待していたそうで、
ガンジーが英国との連繋を維持し、その旗のもとで生活しようとする方法のひとつとして、
「イギリスの側に立って戦争に参加し、それによって戦争の暴力に抵抗する能力を獲得すること」でした。

さらに、
「盗賊の一団に参加を志願し、彼らの荷物運びまたは彼らが仕事をしている間の見張りとして働く者は、盗賊と同じように、どろぼう行為の罪を犯している。それと同じように、戦闘で負傷した者を介抱しただけの者でも、戦争犯罪からのがれるわけにはいかない」として、
「非殺生の見地から、戦闘員と非戦闘員との間に区別を設けない」ことも明言しました。

そのうえで、
「戦争参加を願い出でることがわたしの義務であると結論した」のです。

2015-07-20

「安保関連法案」より大事なことがありますよね

『江分利満氏の優雅な生活』は山口瞳(1926~95年)がサントリー在職中の1963年に直木賞を受けた小説です。

この中で東京六大学野球の全盛時代だった昭和12(1937)年当時を思い出すシーンがあります。

「昭和12年の大学生は、昭和12年の日本について何を知っていたのだろうか、君たちの力で戦争を止めることはできなかったか。そりゃ無理だよ。そんなことが出来るワケがない。昭和の日本では戦争は避け難い。

 それじゃ学生は浮かれていたのだろうか、絶望していたのだろうか。それもわからない」

結局、何もわからないんですけど、印象に残っている部分です。

この小説は『婦人画報』に1961年10月号から翌年2月号に連載されています。

まだ東海道新幹線も走っていない。東京五輪の前。高度成長期のちょうど真ん中あたりです。

終戦からは15、6年後で、もう戦前のことはわからないわけですね。

2015-07-16

政治の「需要」と「独創」

「大衆の知恵は、決して創意などは持っていないのである」
…というのは本田技研工業を設立した本田宗一郎さん(1906~91年)の言葉で、
本田さんの著書『やりたいことをやれ』(PHP研究所)に記されています。

つまり、市場調査っていうのは有効だけど、
それは既成製品の評判を探る場合のことで、
独創的な新製品をつくるヒントにはならない。
なぜなら大衆が絶賛するのは大衆が気づかなかった新しい楽しみを提供するものだからだ、というわけです。

本田さんの「独創」への厳しい姿勢がうかがわれる言葉です。

でも、
大衆の気づかない「新しい楽しみ」は何をもとにして、
産み出せばいいのでしょうか?

途方にくれます。

一方、同書のなかにはこんな言葉もあります。

「安易な模倣に走り、独自の創意を放棄するような考え方が生まれた瞬間から、企業は転落と崩壊の道をたどり始めるだろう」

これは「独創」へのヒントになりそうです。
つまり、安易な模倣をしないことが「新しい楽しみ」を創造する条件といえるのかも。

需要は自分で作り出すものだということですね。

ところで、
需要がないのに、のさばっているものってありますよね。

2015-06-20

予防策と解決策は違います

“苦心して学徳をつみかさねた人たちは 「世の燈明」と仰がれて光りかがやきながら、 
闇の世にぼそぼそとお伽ばなしをしたばかりで、 
夜も明けやらぬに早や燃えつきてしまった”
オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』(小川亮作訳/岩波文庫)から

とにかく不安をあおったり、
けし粒のような心配のタネをバスケットボールほどに拡大したりして、
それがいかに正しい警鐘であるかを叫ぶ人種がいますよね。

経済学者なんて、
その筆頭かもしれません。

ものすごく涼しそうな顔をして、
他人事のように悲観したり、
楽観したり…。

たとえば、
ある一つの問題が「A」か「B」、
いずれかの結果になることが予想された場合、
それぞれの帰結を推察する2つの陣営が喧々諤々の議論をします。
この両者は対等に見えますけど、
そうじゃないですよね。
悲観的な予想をするほうが有利です。

なぜなら、
楽観的な見解や変化なしという予想は、
その通りになっても、
あまり評価されません。

でも、
「悲劇」の予言が的中すると、
「あぁ、すごい!」となり注目が集まることは容易に想像できますよね。

あんまり繰り返しすぎると、
「オオカミ少年」とみなされて、
相手にされなくなりそうですけど、
結果がどうであれ、
責任を取らされることがないと、
意見を主張できる土俵からは撤退しないので、
とにかく小声でも、
悲観的なことを言い続けるのが得策になります。

すると、
どうなるか…。
まぐれ当たりというのがありますよね。
そうなると、
それまでの当たり外れの確率は無視されて、
「予言」が脚光を浴びることになります。

…と、考えれば、わかりやすい。

でも、
何だか違和感を覚えませんか。

僕は覚えます。

その理由を探ってみたら、
巷の投資セミナーなんかの博打のようなケースを別にすれば、
最悪の「悲劇」って、
ほとんど起こらないし、
起こっても、その被害が甚大であったとしても、
それに起因する痛みに関係のない人々には、
「悲劇」はなかったも同然だからです。

「悲劇」の予想に共感していた人々は「それ見たことか」と、
「楽観」予測派を攻撃しますし、
予想した本人をリスペクトして、
さらなる「予言」を求めます。

それはそれで「悲劇」を予想したヒトのメリットにはなるんですけど、
「悲劇」は起こってしまえば、
処理や解決をしないといけない。
でも、
「悲劇」を予想した人間は「解決策」まで持っていないことが多いのが現実です。
「予防策」は持っているかもしれないけれど、
それは「悲劇」のあとでは「解決策」にならない。

ただ「予防策」を「解決策」と混同する人々は必ずいて、
解決のために予防を主張する声が必ず出てきます。
それは過ちを繰り返さないということには効果的かもしれないけれど、
拘泥しすぎると、
直面する問題の解決の妨害にもなりかねない。

さらに深刻なのは、
問題の解決が放置されると、
象徴化して、
過剰な「予防策」が支持を集めます。

なぜなら、
「悲劇」の影響への脅威が多くの人々に拡大していくからです。

たぶん、そんなときに、
過激な「予防策」を「解決策」のように提示できる人間が現れれば、
その人物は独裁者になることができるのでしょう。

何が言いたいのか…。

水が高きから低きに流れるように、
必ず訪れる「悲劇」に対しては、
影響を最小限に抑えるために、
まず現在、できることを着実にしなければならないということです。

たとえば、
高齢化や少子化の進展に伴う社会保障費の増大による国の財政の悪化。
バカみたいなインフレが起これば、
数字的には解決するんでしょうけど…。
それは回避しなければならない。
そのためには、
増大していく医療費を抑制するのがかなり効果的です。
2000年代の当初は、
医療関係者からは、
「日本の医療費は公共事業支出に比べれば小さい」という指摘がありました。
しかし、
一般会計ベースで、
歳出を見てみると、
2001年度は公共事業が12%を占めていたのに、
2013年度は6%です。
一方、社会保障関係費は21%から31%に増大。
金額ベースでみれば、
17・6兆円から29・1兆円となり、
このなかで一番増加率の高いのが、
3・7兆円から7・3兆円になった医療費です。

医師不足も叫ばれていますから、
まず、病院に行く回数や投薬量が減るような施策が急務です。
もう何年も同じ薬を飲み続けているのなら、
処方に必要な診察を減らすとか、
コストの低い代替医療の活用など、
とにかく病院へ行く回数が減るようにして、
薬も減らす。
できることはいくらでもあります。
それを阻んでいるのは何なのか。
海外の医療実態とも比較して、
すぐにできることはたくさんあります。

2015-06-02

「消費税」と「戦争」

ちょうど「失われた20年」の始まりのころの1994年。その年の11月の「週刊プレイボーイ」(1日号~15日号)に掲載された吉本隆明の「日本における革命の可能性」というインタビューが大幅改稿されて、
『わが「転向」』という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを説明し、
そのうえで、

欧米の方法は
「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。

つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と解説。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
まだ、産業革命を引きずっているような時代錯誤の声も聞こえてきますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
権力者にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題からそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。
権力者が称賛を浴びる機会なんて極めて少ないのが現実ですし。


権力者は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力者」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力者」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
権力が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力者」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを示したうえで、
欧米の方法は
「こういうやり方には「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。
つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と説明。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
産業革命時代と同じような考えを堅持しているのではという「声」を聞くこともありますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
「権力」にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題から眼をそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。

「権力」は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
「権力」が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。

2015-05-31

病と政治


「高橋和巳(たかはし・かずみ)」と耳にしても、

30代より下の年代でピンとくる方はほとんどいないかも。

ジャイアンツの投手だったヒトじゃないですよ。
あれは、
「高橋一三」

小説家で中国文学者で京都大学の助教授もつとめました。
1971年、癌(がん)で亡くなりました。
享年39ですから、早逝といってもいいと思います。

小説『日本の悪霊』は黒木和雄監督で映画化もされました。

全共闘世代…いわゆる団塊の世代の支持を得た人物で、
僕が同志社に通っていた1980年代前半でも、
それなりに読まれていたという印象があります。
ただ、
毎日、ヘルメットをかぶった学生がキャンパス内でデモをしていたような“ガラパゴス”環境だったので、
世間一般の大学の事情とは違うかもしれません。

『高橋和巳エッセイ集「孤立無援の思想」』(旺文社文庫)に、
「思うに内臓の一部分、たとえば心臓がむやみに気にかかるという状態は、その人の心臓が病んでいることを意味するように、わたしたちにとって、政治のことが気懸りなのは、人間が人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分があることを意味する」
…という一節があります。

そして…
「しかし、もし幸運にも病苦を忘れうるなら、私は必ずしもその忘却や無関心を非難はしない」
…と続きます。

1963年に書かれています。
この文章に出てくる「政治」は、
別の言葉に言い換えられるでしょう。
たとえば、「政治」と不可分ですけどれど、
「国際関係」ですね。

もっと具体的な例では「福島第一原発事故」もそうでしょう。

ただ、高橋和巳はここでは、
「政治」に限定しています。
そのうえで、
「最大多数の最大幸福を意志する政治」は、
「百万人が前に向って歩きはじめているとき」に、
顔を覆って泣いて、その“行進”に参加しない脱落者を見捨てるが、
「文学者」は、
百万人の隊列の後尾で、
(理由はなんであるにせよ)「うずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである」と断言しています。

本来の高橋和巳の意図は別して、
僕にとって、
この文章の示唆するものは、

おおまかに2つあります。

「政治」の問題を解決するのは、
緊急避難的な弥縫策である場合が多く、
問題が解決したと見えても、
副作用があったり、
新たな火種を生んだりして、
人間の根源的問題は残るということ。

そして、
もうひとつは、
本当に病んでいる部分があるのに、
別のことに気を取られたり、
痛みが現実になっていなかったりするため、
忘却や無関心が起こるということ。

この2つを「文学者」ではない僕が、
自分なりに総合すると、
「政治」で改善できるのは弥縫策が奏効する問題がほとんどなので、
「政治」に依存せず、
「個人」が自律的に解決していくことが大切だけど、
今、自分に痛みがないからといって、
「政治」が解決できる問題に無関心であったり、
忘れてしまったりしてはいけないということ。

そして自分の身体を気遣うように、
「人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分」を意識することが大切なんでしょうね。

ちなみに、
床屋談義が盛り上がることを、
政治への関心の高まりと誤解してはいけないような気がしています。
先の「大阪都構想」の住民投票への議論は、
床屋談義の盛り上がりにすぎなかったかも。
「変化するか、しないか」ではなく、
「どのように変化するか」かが問われたのに、
投票が終わってみれば、
みんなが傍観者になっているような気がして…。

痛みのない変化はない。

「病」からの回復には痛みはつきものなんだと思います。

2015-05-19

「住民投票」の意味を誤解してないか!


一昨日の日曜(5月17日)に、

「大阪都構想」の是非を問う住民投票が大阪市で行われました。

結果はご存じのように、
「反対」が70万5585票で、
「賛成」69万4844票。
反対が賛成を1万741票上回り、
大阪市を廃止して5つの特別区に分割する案は否決されました。投票率は66.83%。

住民投票前に、
「反対派」からは「都構想は毒饅頭」という批判がありました。
とはいえ、
「都構想」が実現しなくても、
従前のままの大阪府・市政運営なら、
毒饅頭を食らったのと同じなのはいうまでもありません。
というより、
現状はすでに毒饅頭がお腹のなかにある状態で、
それをどのように、
うまく排泄するか、が問題になっていると考えるべきでしょう。

今回の「住民投票」で問われたのは、
財政危機状態の大阪府・市の状態を、
「変えるか」
「そのままにするか」
ではありません。

変化しなければ、
座して死を待つだけですから、
「どのように変化するか」が問われたわけです。

つまり「反対派」は大阪市を残したままで、
「変化する」ことを選んだことになります。

ここで「話が違う」と叫ぶ「反対派」がいたとしたら、
もう毒饅頭がすでに腹のなかにあるのに、
毒が回りかけていることに気づかない、
ゾンビ寸前のバカでしょう。

そこを理解していない「反対」は、
単なる利己主義です。
ここで誤解しないでください。
利己主義が悪いと言っているのではありません。
利己主義に無自覚だったとしたら、
問題だと申し上げているわけです。

一方、
50代以下では賛成が上回ったのに、
反対に回った60代以上の票が結果に大きく影響したといわれ、
「既得権」を守ろうとした“老害”を批判する声も聞こえてきます。

結局、各年代の投票率の問題になってくるような気がしますが、
それはさておき…。

賛否が拮抗したことで、
今後は二重行政の解消や、
財政の健全化の推進がこれまでにも増して注目されることになりました。

たとえば、
「都構想」が実現していた場合、
各特別区の住民は、
行政サービスの低下に神経質になり、
その対策に向けたコストがかさむ蓋然性は低くはなかったと思います。

反対派もネチネチと追及するでしょうから、
それをかわすコストが必要になってくる。
賛成派は行政サービスの低下はないと言っちゃったんですから…。

ところがですよ、
誰も痛みを感じない変化ってあると思いますか。

あるとしたら、
もう魔法の領域です。

普通のアタマで考えたらわかることで、
工夫もなし、
痛みもなしの、
従前の施策の漫然とした継続は大阪市の破綻を意味しますからね。

これまでの“実績”でも分かるように、
税収を増やそうとして、
行政が産業振興をしても、
それが結果に結びつかないことは鮮明です。

つまり支出の抑制・管理が行政と地元議員の最も大きな課題となります。
痛みが伴わないわけがない。

その流れのなかで、
高齢者への行政サービスを見直せという意見も出てきています。

もちろん過剰な福祉施策を縮小するのは当然ですが、
老人を悪人のように指弾して、
「敬老優待乗車証」などまで云々するのはいかがなもんでしょうか。

僕は短絡的な考えだと思います。

高齢者の社会保障費が負担の増加は、
過剰な医療・介護に大きな原因があるというのが僕の印象です。

医療や介護が適切な程度に配分されるような、
トリアージ(優先順位の判断)が必要で、
その能力を持つ「総合医」の幅広い配置がとても有効です。

これは自明のことなのですが、
実現を阻んでいるのは何か?

それを見極めましょう。

結局、
老人の介護が社会問題化するなかで、
家族の負担の軽減が安心や働く機会を増やすことになりますから、
老人が機嫌よく暮らせる町は、
それが魅力となるはず。

大阪なら高齢の両親と同居しても安心ということなら、
都市の求心力になります。

そうなれば人口減少にも歯止めがかかるきっかけにもなり、
子供も育てやすい環境になるのは必定です。

それはとりも直さず、
独身者が安心して老年を迎えることができる環境にもつながります。

ただフリーランチ(タダ飯)はない、
というのが経済の原則だということは忘れてはいけないだけでしょう。


2015-05-17

善し悪しの基準

自分の行動を選ぶ場合の基準として、
それをやれば後悔するか、どうか…というのがあると思います。

たとえば、
お酒を呑んでいて、
これ以上、呑むと二日酔いになるのは分かるわけです。
でも、呑んでしまって、、
翌日、3軒目はやめといたらよかったなぁ、とか、

お酒を呑んだあと、
ラーメンを食べると、
体に良いとは思えませんし、
太るし、
翌日、二日酔いに消化不良が加わって、
食べなければよかった、とか…いうケースですね。

もう後悔は必然なのに、
やってしまう。
不思議です。

ですから、
ある行動を選択すれば、
後悔するということが確実ならば、
やめておくべきことは言うまでもありません。

当たり前の話です。

考えてみれば、
こんな明確な基準があるのに、
なぜ、それをもとにした行動の選択が簡単にできないうえ、
選択を間違うのか…、
それが不思議なくらいです。

つまりまぁこれは、
意志の力、
克己心の問題ですよね。

はい、わかっています。

難しいのは「後悔するかもしれない」という場合です。

「かもしれない」という不確定性が大きいことについて選択を迫られたときですよ。

これにはいろんなパターンがありますよね。

たとえば、
もうこれ以上、呑んだら、
二日酔いして後悔するのはわかっているけれど、
めったに呑めない珍しいお酒を出されて、
呑まなければ、後悔するかもしれない場合とか…。

あっ、これはもう味がわからなくなっているから、
呑まなくてもいいかも…。

う~ん、
別の例を探すと…。

たとえば、
命にかかわるかもしれない病気の治療方法の選択で、
ものすごく高価な薬を飲んだら、
完治するかもしれないけど、
副作用が強いうえに、
治ることが確実でない場合。

もしかしたら、
その薬を服用すると、
後悔するかもしれないけれど、
服用しなくても後悔するかもしれないという状況ですね。

つまり、リスクをどう考えるか。

絶対的な後悔が確信されることは、
回避するのが当然です。

しかし、不確定で確信できない場合はしかり。
そこに責任が絡んでくるとまた、
ややこしい。

結果的に後悔はしても、
個人として結果の責任を負わされるのを回避しようと、
画策すれば、
原則論に沿うのが一番、正しい選択になります。

ものすごく単純に言えば、
「平和」「平等」「護憲」「弱者救済」「争いの否定」を軸にして、
物事を語っていれば、
それは「正論」で、
異論は邪気が絡む、こじつけとか、
利己心を源にする考えとして受け付けなければいい。
無難です。


さしずめ、
日本の状況で考えると、
保守勢力の主張はほとんど間違っていて、
中国、韓国、北朝鮮の言うことが概ね正しいと主張するのが一番安全ですよね。

そのような考えを信条として持っていて、
批判はされても、
命の危険は少ない。
でも、
万が一、
日本が今後、中国の傘下に置かれるようなことになったら、
「おまえはこういう考えを流布していたよね」ってことで、
無難ではない反対の思想・信条を持っている人間は肉体的に粛清される可能性もありますから、
とりあえず、中国の主張に真っ向から反対しないのが安全です。

第二次世界大戦で敗戦国になって、
戦時中のスタンダードが否定された“教訓”もあります。

…というわけで、
きょう(2015年5月17日)は、
大阪都構想の是非を問う住民投票の日です。
これこそ、
どちらを選んでも「後悔するかもしれない」象徴的な選択という印象もあるのですが、
もしかしたら、
どちらかが選ばれることによって、
明らかに、
後悔するというよりも、
自分自身が「損」をする、
つまり、
選択の結果によって、
後悔というよりも、
自身の利益・不利益が明確な人たちばかりの声が大きいような気がします。

つまり、
ほとんどの人間には、
結果にかかわらず、
実質的な影響の少ないことに、
巻き込まれているだけかもしれません。

そのような改革は、
結果も期待してはいけないんでしょうね。

2015-05-14

政治家になる人間


「西郷隆盛って誰?」っていう人もいるかもしれません。

でも、
ほとんどの人は何となく知ってるだろうから、
いちいち説明はしないけれど、
wikipediaによれば、
生年月日は「文政10年12月7日(1828年1月23日)で、
亡くなったのは「明治10年(1877年)9月24日」。

西郷の教えなどを収めた岩波文庫『西郷南洲遺訓』の表紙には、
生没年が「(1827-77)」となっていて、
生年が1年早くなっていますが、
年月日を厳密に当てはめると、
西暦ではwikipediaのほうが正しいようです。

でも、それはもちろん些事。

この本を読み返していて、
あらためて心を惹かれた部分がありました。

それは「遺訓」の「一三」節の…

「租税の薄くして民を裕(ゆたか)にするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐たげぬもの也」

…という部分です。

たとえば、
消費税率上昇は、
「上」(特に官僚)の方々からしてみれば、
これだけ高齢化が進んだうえに少子化で、
医療費やらがかさんで、
国の借金が増えているんだから仕方ないじゃん、
…ということになるでしょう。

さらに「スウェーデンなんか25%で、もっと高い国もあるんだぜ」というのはよくなされる説明です。

しかし、スウェーデンでは消費税が一律ではなく、
食料品や公共交通費などには軽減税率が適用されていて、
医療費や教育費の負担も日本よりは低いことも知られています。

つまり、消費税率が高くても、
国民も利益を享受している実感があるので、
日本の3倍以上の税率でも、
納得できるのでしょう。

もう単純な話で、
税金の負担者の腑に落ちるかどうか。
感情の問題です。

消費税が社会に還元されている実感はないですし、
東日本大震災の復興予算すらややこしく使われています。

西郷の言葉のように、
「上を損じて下を虐たげぬもの也」が実践されていて、
負担に見合う安心・信頼が醸成されれば、
問題はなく「國力」も養成できるんでしょうけれど、
「上」が痛みを甘受しているという実感…というより現実があるでしょうか。

別に、
ここで怒る必要はありませんよ。
怒りは不健康ですから。

何が言いたいかというと、
納税者がメリットを感じない増税は、
結局、民を貧しくするということです。

この貧しさは単なる経済的な数値に置き換えられるものではなく、
気持ちの貧困につながるということは容易に想像できますよね。
健全なやる気が出ないってこと。

自分だけがよければいいって感じで、
抜け駆け競争ばかりになるような気がします

戦後の教育は悪いとか、
日教組の責任だとか、
色々といわれてますけど、
大事なのは、
「上」に立とうと志す者は自分が損してでも、
「下」の民のために尽くすことが大切で名誉だ、
という生き方もあるってことも教えないのが元凶なんじゃないですかね。

それが正しいという自信も根拠もないし、
僕自身も「上」に立つ気はないし、
立てないし、
とにかく機嫌よく暮らしたいと思っているので、
率先垂範はできないんで、
無責任な話で申し訳ないとは思うのだけど…。

ただね、
同じ「遺訓」のなかには、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり」
…という言葉もあって、
これにも惹かれます。

もちろん大業を成すつもりも力量もないけれど、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」には憧れに似た気持ちはあります。
実際、このなかで僕が持っているのは命だけですし
……というのは戯言ですし、
この世のほとんどの人間は同じ境遇なわけですけど…。

「名」「官位」「金」のために、
「上」に立つ人物ばかりでは「民」は貧しくなり、
早晩「國力」は衰えることが理(ことわり)として顕現する世界になってほしいものですね。

ただ確信を持って感じるのは現状、
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」は政治家や官僚にはならないということです。