2015-07-25

「やせ我慢」の美学の落とし穴

『桂米朝 私の履歴書』(日経ビジネス文庫)を読みました。
戦後「滅びた」とまで言われた上方落語を再興させた米朝師の足跡が描かれています。
米朝師にも、高座にお呼びがかかったのに散髪代もなかった時代があったんですねぇ。
着物にも困った時期もあって、
先に舞台に上がった兄弟弟子に借りるため、
足袋と肌じゅばんで楽屋で待っていたとか…。

しかし、
「好きで飛び込んだ芸の世界。端から見たら惨めでも、本人には落語三昧の天国だ」そうです。
自分の仕事を「天国」と言えるのは、
まさに「天国」ですね。
実際、あんまり苦労話は出てきません。

ちなみに、
この本、先の引用もそうですが、
「だ」という活用語がものすごく頻繁に使われていたのが気になりました。
たぶん、米朝師が書いたものか、話されたものを新聞社のほうでまとめたのでしょうけど、
米朝師は「だ」をあんまり使わなさそうな気がするので、
出てくるたびにリズムが損なわれて、残念です。
でも、あまりにも出てくるので慣れてしまうんですけどね。

それはさておき、
この本には「落ち穂拾い」と題して、
米朝師と、国立民族学博物館名誉教授(元館長)の石毛直道先生との対談も収録されています。
そこで、江戸と上方の文化比較の話題になって、
「うどん」と「そば」のことが出てきます。
石毛先生によると、
「だいたい元禄時代まではですね、江戸でもうどんのほうがそばより格が上だったんです。だから、絵でも、看板には『うどん、そば』なんです。うどんが先に出てくる」そうです。

「江戸の都市文化では、うどんの原料の小麦の方がそば粉なんかよりずっと上なんです。そばなんてやせ地のもの。<中略>元禄以降の江戸の文化がですね、価値の低い食い物だったそばを洗練させて通の文化にした」と石毛先生。

米朝師もそれを受けて「江戸文化ってのはやせ我慢の文化という一面があると思う」とおっしゃってます。

東京の「蕎麦屋」というところの、
通ぶった雰囲気が苦手ですが、
やせ我慢からの工夫だと聞くと、
また印象が違ってきます。

やせ我慢を文化に昇華させるという知恵は、
悪いもんじゃないですね。

一方「端から見たら惨めでも、本人には落語三昧の天国」という米朝師の言葉は、やせ我慢じゃなさそうです。

やせ我慢をしない人間の性格が関西の文化を作ってきたような気がします。
これは言い換えれば「本音」を隠さない文化なのかもしれない。

だから「裸の王様」には「裸の王様」だと言ってしまうところがあるのだと思うのです。

でも最近、江戸的な文化の方が全国に拡散して、
関西でも、あんまり「本音」を出さなくなっているのではないでしょうか。
だから、意見を表明するときは、
二者択一的な両極に分かれる傾向が出てきているような気がします。

そして「本音」を出すことが、
商品やサービスのアイデアにもつながっていくのが当然ですよね。
最近、関西…さらには日本の経済がイマイチなのは、
いろんな意味で「本音」を大切にしなくなっているからかもしれません。

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