2015-07-15

「生きがいについて」について語るときに僕の語ること

精神科医で、マルクス・アウレーリアス『自省録』(岩波文庫)などの翻訳や、エッセーなどで知られる神谷美恵子(1914~79)の『生きがいについて』(みすず書房)の本文冒頭は、僕にとっては衝撃でした。

<生きがいということばは、日本だけにあるらしい>という一文です。

「生きがい」を手元にある『パーソナル和英辞典』(学研)で引いてみると、
「生き」の項で「生き甲斐 ~がある be worth living」と記されて単語のように独立していない。

「生きがい」も「生きる」+「甲斐」の2語を合わせたものなので、「生きがい」という言葉が日本にしかないとはいえない…とも考えられる。

しかし、僕としては英訳との乖離が大きい気がして“神谷説”のほうが腑に落ちます。

「worth」は「価値」とか「有効性」「財産」という日本語が充てられることが多いけれど、
「生きる価値」や「生きる有効性」と、「生きがい」には隔たりを感じるからです。

『生きがいについて』では、
<英、独、仏などの外国語に訳そうとすると「生きるに価する」とか、「生きる価値または意味のある」などとするほかないらしい。こうした論理的、哲学的概念にくらべると、生きがいということばはいかにも日本語らしいあいまいさと、それゆえの余韻とふくらみがある>とも書いています。

つまり「生きがい」には「価値」という言葉に単純に言い換えられないニュアンスがあるということです。

「ニュアンス」を日本語にしにくいのと似ているかもしれません。

「もったいない」も翻訳しにくいため「MOTTAINAI」という世界共通語にしようという運動もあるように、
違う言語同士の相互変換の限界を示す一例にしかすぎないのかもしれません。

確かに「僕の、この生きがいは、どんな価値にも置き換えられない大切なものだ」という日本語は成立するけれど、
英語やドイツ語に翻訳するのは難しそうで、
「IKIGAI」とせざるを得ない気がします。

オーストリア・ウィーンで開かれたイラン核問題解決をめざす欧米など6か国とイランの最終協議は2015年7月14日、「包括的共同行動計画」で最終合意しました。

「歴史的」とされている、この「合意」も数値や具体的な行動に置き換える部分を除けば、世界中のさまざまな国・地域の理解のなかには翻訳不能な部分があるのかもしれません。

日本語を母語とする立場から言えば、
日本語以外を母語とする人々に、
「生きがい」という言葉がなくても、
「生きがい」という気持ちや概念がないとは思えません。
もし、そうないなら、
まさに「生きがいがないじゃないか」とアタマを抱えそうになります。

だから、
言葉の違いを乗り越えて、
人間に共通した感覚があると信じ相互理解を深めていこうというのは簡単で、
それが「正しい」ことなのかもしれません。

でも、
本当に相互理解を深めようとすれば、
「生きがい」という概念を持たない人々もいるかもしれないという気持ちで臨まないといけないような気がしています。

そして相手が当たり前に持っている概念をこちらが持ち合わせていない可能性があることも…。

しかし、意味やニュアンスを伝え合うことは可能だと信じます。

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