「得意な科目は?」とか「好きな科目は?」って聞かれたら、
何て、答えてましたか?
僕は学校というものが嫌いだったので、
そこに含まれるものの中に好きなものなど、あるはずもなく、
また、好きでもないのに得意なものがあるはずもなく、
答えに困りました。
でも、高校に入ると、
「漢文」はけっこう面白いし、
試験も難しくないので、好きな“部類”だったのですが、
高校生になると、
「好きな科目は?」と聞かれることもなくなったので、
答える機会もなく今に至っています。
その漢文の授業のなかで「孔孟の教え」っていうのを習いました。
「儒教」の代名詞みたいなもので、
「孔孟」の「孔」は孔子、
「孟」は孟子のことを示しているということでした。
その孟子曰く「憂患に生き、安楽に死す」。
それについては、
前にも、このブログで書いたけど、
あらためて整理してみます。
守屋洋著『逆境を生き抜くためのすごい言葉一〇〇』(角川SSC文庫)によると、
「心配や悩みがあるからこそ生き残ることができる。安楽にひたっていたのでは破滅を免れない」ということだそうです。
僕は最近まで、この言葉が理解できませんでした。
心配や悩みがあったら、心やすらかでなくて病気になって、
寿命が縮まるんと、ちゃうのん?…と思ったわけです。
だから「安楽」を求めましたよ。
でも、
「安楽」っていうのは、
夏の逃げ水のようなもので、
追っかけても追っかけても、
捕まりません。
たまに「安楽やぁ」というようなことがあっても、
すぐに状況は変わるし、
「安楽」からの変化を恐れて不安になって、
余計に楽しめないということを繰り返してきました。
でも、
生きてる限り「安楽」なんてない、
と割り切ったら楽になりました。
その実感が孟子が言わんとすることに焦点が合っているのか、どうかは自信はないんです。
でも「憂患」のなかの、ひとときの「安楽」を楽しみ、
心配や悩みはあっても、それを気に病むことのないようにするしか仕方ないんじゃないですかね。
そもそも「安楽」っていうのは難しくないですか。
たとえば、東京大学法学部を出て(中退も含む)、
財務省の官僚になって、
天下りする人生は、
社会的に地位も名誉も、それなりの財もあって、
そんな境遇にある人物自身も、
それが「安楽」だと信じるので、
それを支える社会的な状況を持続させるために、
けっこう苦労してると思うんですよ。
実際、自己満足という「安楽」には浸っているのは確かです。
でもね、
その「安楽」のために、
世間に対して合法的な理不尽を強いたことがないとは言わせないな、僕は。
つまり「安楽」の持続を求めることが不幸のタネになるんじゃないでしょうかね、自分にも世間にも…。
「安楽」は一夜の夢で、
持続はしないと諦めれば、
心配や悩みに病むことはなくなるような気がします。
戦後の日本っていうのも、
一夜の夢だと割り切れば、
まだ来てもいない将来におびえて、
自分だけの「安楽」の持続に汲々とすることはなくなるんじゃないでしょうか。
「日本の安楽が壊れる!」と脅す声が色んな方面から聞こえてくるけれど、
「憂患」が普通の状態だと割り切れば、
過剰反応することなく、
本当に今、やるべきことが見えてくる気がしているんですけど、
いかがでしょうか?
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