受賞すれば、お笑い芸人では初ということで、
候補作に選ばれたときから世間から注目されていました。
そんなわけで、
僕も注目していましたが、
この日は衆院で「安保関連法案」が可決したり、台風11号が大阪にも近づいていたりで、
忘れていました。
もちろん、文化部に在籍して文芸を担当をしていたときには、
何があろうとそんなことはなかったです、念のため。
文化部にいたときは、
文芸担当でなくても、
候補作は毎回だいたい目を通していました。
芥川賞の候補作は本になっていない作品がほとんどで、
掲載されている文芸誌で読んでおかないと、
一生、読むことがない恐れが大きいということもありました。
今回の「火花」は興味があったのですが、
すでに本になっていて、
いつでも読めるということもあって、
まだ読んでいませんでした。
ウィキペディアで「又吉直樹」を調べてみると…。
何歳のときのことかは定かではないのですが、
「国語の実力テストの知能偏差値75で全国トップになった」ことがあり、
大阪・北陽高校(現・関西大学北陽高校)時代にはサッカー部に在籍し、
大阪府代表でインターハイにも出場したことがあるそうです。
そのうえ、生き残りがものすごく厳しい芸能界で、
そこそこに有名になったうえに芥川賞です。
「太宰治」も「村上春樹」も受賞していない芥川賞ですよ。
その村上さんが、
小説家にとって一番重要な資質は「才能」である、
とおっしゃっていることは以前、このブログでも書きました。
又吉さんの経歴をみると、
才能は偏在するのだなと思いました。
実際、小説家は才能です。
僕は仕事で少なくはない数の小説家と、お会いしましたが、
それは会ってわかるようなものではなく、
作品ににじみ出るものです。
実際に会ってみると、
「このヒトが本当にこの作品を書いたんやろか…」と思ってしまったこともありましたし…。
(悪い意味ではなく、気さくで楽しくて、特別感はなくて、ある意味、普通の人間ということです)
小説家の作品には、
「才能」というものでしか説明のできない「何か」が埋め込まれていて、
そのもとになるものがなければ、
どれだけ研鑽を積んでも意味がないと思える「何か」です。
「何か」とは、
言葉では説明しにくいものだけど、
僕が自分には、
その「何か」がないと自覚できるくらいには明瞭な「何か」です。
導火線みたいなものがあって、
何かのはずみで散った火花で、
爆発するようなものかもしれません。
毎日新聞社在籍中の1950年(昭和25)年に 『闘牛』で第22回芥川賞を受けて、晩年はノーベル文学賞候補としても注目された井上靖さん(1907~91年)は「私の自己形成史」(新潮文庫『幼き日のこと 青春放浪』所収)という文章で、こう書いていらっしゃいます。
「終戦後、私は詩や小説を書き出したが、詩人になるつもりも小説家になるつもりもなかった。ただ自分をなんらかの形で表現したかったまでのことである」
小説家の「才能」というのは、
水が高いところから低いところに流れていくような摂理で世の中に現れてしまうような「何か」なのかもしれません。
本来は、
ここでオチがあって、
文章のおさまりがよくなるのですが…。
何も浮かびません。
僕にはブログを書く「才能」もないのかもしれません。
「神さまは不公平」というか、
最近は、
「不公平なので神さまなのだ」と思える境地には達してきたのだけど…。
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