それからまもなく23年です。
亡くなった年の11月に「中上健次の最初で最後の『人生相談』」と銘打った『問答無用』(講談社)が出版されています。雑誌「ORE」1990年4月号から91年7月号まで連載された中上健次による「人生相談」をまとめた本です。
この中で、「小説家になろうと思っているのですが、やっていく自信がありません。中上さんは、どうなされたのか教えてください」という21歳の「U・T」という方と、
「将来、小説を書いてみたいと思いますが、中上先生は、構想などは、どのように組み立てていかれますか」という19歳の「K・K」という方からの相談があります。
この雑誌は男性誌だったようですので、この2人も男性だと思います。
中上健次の回答を要約すると…。
文学も、お稽古ごとと一緒だと思えばいい。
たとえば、ツン、トン、シャンという音が好きで、
三味線の練習をしているうちに、何かを表現したくなる。
文学もそれと同じ。
文章能力や構想などは文章が作ってくれる。
文章は肉体なので、チンポコ(文中の表現のママです)のある奴は文章を書ける。
チンポコで男は悩んで、自分自身を確立していく。
自分があったら、書けるので、小説家になれる。
でも、本当に好きな奴しか生き延びられない。
だから、こんな悩みを持っているという自体でもう絶対、作家になれない。
そして「文章を見なくても、酷なようだが、止めたほうがいい」と勧告しています。
以前、このブログで、
中上健次と同世代の村上春樹が、
「文学的才能がなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。これは必要な資質というより前提条件だ」と書いていることにふれたことがあります。
「中上」と「村上」、このふたりのおっしゃっていることは、
真逆のようでもあり、
結局、同じことを言っているようでもあり…。
実は僕にはそれがわからないんです。
それは僕が小説家になりたいと思っておらず、
この問題が自分にとって切実でないからかもしれません。
では、なぜ、また小説家になる資質に関することについて書いたのか。
それは、どのような理由で、
ヒトは小説家になりたいと思うのかが知りたいからです。
「何か、文壇って、カッコいい」
「夢の印税生活を送りたい」
「何か書きたいテーマがある」
僕としては、
そんなことしか浮かばないのですが、
中上さんや村上さんのおっしゃっていることを読むと、
とてもじゃないけど、
そんな動機だけで小説家として持続的な活動はできそうもありません。
確か、瀬戸内寂聴さんは新潮社の「怪物」とも呼ばれた編集者の斎藤十一(1914~2000年)に「小説家は、自分の暖簾をかかげた以上、恥を書きさらして銭をとるんだ」といわれたそうです。
それは中上健次のいう「文章は肉体」に繋がりそうで、
裸というより内臓や頭の中まで見せるような覚悟も必要なようなのに、
なぜ、そんなものになりたいのか。
僕が小説を読む理由は、
もしかしたら、
なぜ、この作品の著者は小説家になったのか、
を知りたいからかも…。
ただ、世界的な名作と言われている小説を読んで…
…たとえば『カラマーゾフの兄弟』…
ドフトエフスキーが作家になった動機になんて考えもしなかったので、
それが小説を読む理由のすべてではないのは確かです。
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