2015-07-19

「他力」「自力」そして「無力」

「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の、いわゆる“悪人正機説”を知ったのは中学生のころだったと思います。
たぶん歴史の時間…、
鎌倉仏教のことを習ったときだったのでしょう。

浄土真宗の宗祖・親鸞が、まず悪人から救われると言ったということが『歎異抄』という書物に記されているというんですね。

当時は浄土真宗って危ない宗教なのか、と思ったくらいですけど、
でも、
京都には西本願寺とか東本願寺という有名で大きな寺があって、
母の実家も浄土真宗。
宗派が真宗という家も多いのに、
別に信者が積極的に悪いことをしているという話は聞いたことがない。
あったとしたら、
ニュースになっているはずですから、
この“悪人正機説”というのは、
なにかの寓意を含んだ逆説的なものだと、
考えたわけです。

でも、そうでもないことは、
『歎異抄』を読んで感じました。
でも、しっかりと腑に落ちたわけではありません。

その状態が齢五十をすぎても、
あんまり変わらないというお恥ずかしい次第です。

『歎異抄』のなかには、
弟子と親鸞のやりとりもあって、
たとえば、
親鸞が弟子に「わたしのいうことを信じるか」と聞きます。
弟子は師が言うことですから、もちろん「はい」です。
そうしたら親鸞は「じゃぁ1000人殺せ、そうしたら浄土に生まれることができるよ」って言うんです。
弟子はビビって「師のおっしゃることでも、1000人どころか1人だって無理」と答えるわけです。
そうしたら、親鸞は「どんなことでも自分の思い通りになるのだったら、浄土に行くために1000人殺せと言えば、殺せるはず。でも殺す縁がないので、1人でも殺すことができない。人を殺すつもりがなくても、縁があれば100人でも1000人でも殺すことがあるんだよ」と言うんです。

これも“悪人正機”と同じくらいのインパクトがありました。

つまり殺人も悪い心が起こすんではなく「縁」だというわけですよ。
じゃあいくら、悪いことでも「縁」があればやってしまうことになります。

「縁」なんてものはどうも自分の思い通りにならないないもんですから、
とにかく、
そんな「縁」が自分には、ないよう祈るしかないわけですが、
どうも祈っても、どうしょうもないみたいです。

悪いことをしても「縁」なんで、
それじゃぁ、
仕方がないわ、ということは、ないわけで、
罪を償うのも、また「縁」ということになりますしね。
死刑になるのも「縁」でしょう。

それが運命論なのか、どうかはわからいのだけど…。

浄土に行く方法は、
親鸞的には、
「南無阿弥陀仏」しかないようで、
浄土に行くためにわざと念仏をするのも、どうもよくないみたい。
どうもそれは「他力」ではないようですから…。

一方、地下鉄サリンテロは教祖の教えによって、
信者が起こしましたが、
あれも「縁」なのでしょうか?

もし「縁」であったとしても、
何かの「力」に転換することはできなのでしょうかね。
「自力」とか「他力」とかがありますけど、
「縁」の前に僕らは「無力」なのでしょうか。

でも確実に言えることは、
親鸞も現世での「善」と「悪」の存在は認めていること。
そこは曖昧にはしていません。

何が「善」で何が「悪」かも難しいけれど、
「浄土」なんて関係ないところでは、
現世で「善」を追求することは、
親鸞的にも問題はないみたいです。

とにかく無力感にさいなまされずに、
「悪」をなさず、
「善」を心がけることは、
人の道としては真っ当な気がします。

「お天道さまが見ていてくれる」という言葉がありますけど、
お天道さまがちょっと気を許して、
見逃していたとしても、
「まぁいいや」と受け容れる覚悟も必要な気がします。

「原発」「安保関連法案」「社会の高齢化」「地球温暖化」…。
いろいろと問題はあるわけですけど、
何かを選択する場合は、
まず私心を捨てて現れてくるものを見つめるみたいなのがいいのでしょうね。
私心ってものも、よくわからないんですけど…。

そして、自分のことは棚にあげて、
他人の私心を見破ることも大切かもしれません。

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