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2017-03-26

ふたりのトランプ

DVDを買ってチャールズ・チャップリン(Charles Chaplin,1889~1977年)の「独裁者」(原題「The Great Dictator」)をあらためて観ました。

説明するまでもないくらいに、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler,1889~1945年)の独裁政治を批判したことで有名な米国映画。初公開は1940年9月のニューヨークでした。

チャップリンは独裁者とユダヤ人の散髪屋(床屋)の2役。ちなみにチャップリンの誕生日は4月16日で、同い年のヒトラーが生まれた日(4月20日)と4日しか違いません。

この作品の撮影が第二次世界大戦勃発から2週間後に開始されたことに驚きます。。ウィキペディアによると「チャップリンは後世、自伝においてホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれないと述べている」そうです。

僕はチャップリンがタイムマシーンをつかって未来に行ったか、予言能力があったのか、思いました。単に「天才」とは、そういうものなのかもしれませんが…。

2015-08-09

剣はペンよりも弱いか。

「安保法制法案」などの問題もあって、
「8月15日」を前に「戦後70年」に関する論議や考察が重ねられています。

僕も今、昭和史や、戦争とメディアに関する本を立て続けに読んでおりまして、
咀嚼(そしゃく)して、どのように自分の知識や意見としていけば、
いいのか検討しているところです。

「何を今さら」という叱責も聞こえてくるような気がしますが、
いろんなものを読めば読むほど、
一筋縄ではいかないという思いが強くなるんです。
その半面、
読むものの幅を広げていくと、
学問的な検証などで「間違い」だと言い切っても許されるようなことを「真実」の前提として語っているような意見もあるような気がして、
人々のアタマのなかになる歴史の多様さに、
唖然としているような次第です。

一方「新聞」というメディアの一般論にしていいのか、どうかはわからないのですが、
抽象的には「大東亜戦争=太平洋戦争」に関しては、
「新聞」が「国民」を駆り立てたというのは間違いないという気はしています。
ただ、当時、どれくらい「新聞」が影響力を持っていたのかが実感として分からず、
実質的な関与の度合いが僕の想像力では心もとない部分もあります。

それに関する話ですけど、
「ペンは剣よりも強し」という言葉があります。
言論は暴力を凌駕するということで、
ジャーナリズムの「力」を示す象徴的な言葉となっています。
ですから、
ジャーナリストは言論弾圧に屈してはいけないことになっていますし、
言論が統制されるような社会は不健全だということになっていて、
たぶん、それに異議をとなえる方はいらっしゃらないだろうし、
もし、いらっしゃったとしても、極めて少数に違いありません。
僕も、そのこと自体には異議は全くありません。
ただ、歴史のなかで、

2015-08-02

自家中毒の「死角」 『大東亜戦争 敗北の本質』を読む

『大東亜戦争 敗北の本質』(ちくま新書)は、
この本のなかでも引用されている儒教・四書五経のひとつ『大学』の「心ここに在らざれば視れども見えず」という警鐘が戦前の日本軍部で生かされなかった実態をデータで証明しています。

「心ここに在らざれば…」とは、人間に見たくないものはとにかく見えないということです。

日本は米国と戦っても国力の差で勝てないという分析が戦前からあったのに、
日露戦争の勝因を背景にして醸成された「空気」のなかで1941(昭和16)年12月8日の開戦に踏み切り、
無計画さが戦時中に露呈していくなかで弥縫策と「精神論」でしのごうとした無謀さが淡々と記され、
読んでいくと唖然とさせられる箇所がいくつもあります。

著者は戦史研究家で元防衛大学校教授の杉之尾宜生(すぎのお・よしお)さんです。

2015-08-01

暴力と宗教とカネと…

早いです。
「早い」というのを客観的に表現する方法がわからないのですが、
「えっ、もう」という実感はものすごいです。
何がかというと、
きょうから8月だということがです。

8月15日で「敗戦」から70年ですけど、
もしかしたら、あっという間だったのかしれません。

現在の歴史に僕というものが参入して、
52年と10カ月ほどなんで、
もっと長い期間「戦後」を生きているヒトはどうなのか、
反対に最近、参入した若い方はどんな感じなのか、
その感覚の共有は難しいです。

「時間」は絶対的な尺度のはずなんですけど、
陸の上を走る10秒と、
水の中を泳ぐ10秒は意味が違ってくるように、
「歴史」への遠近感も個人の「立ち位置」によって、
意味が違ってくるのでしょうね。

「世界史」の教科書を読み直すと、
試験に出る重要度をあまり気にしなければ、
「歴史」のバックボーンは「戦闘」でできているような気がします。

そして、
さらに俯瞰すれば、
歴史を変えるのは、
「暴力」と「宗教」と「カネ」がまず基本的な「力」として存在して、
二次的に「政治」があって、
それぞれを「文化」と「技術」が串刺ししているように思えるのですが、いかがですか。

2015-07-20

「安保関連法案」より大事なことがありますよね

『江分利満氏の優雅な生活』は山口瞳(1926~95年)がサントリー在職中の1963年に直木賞を受けた小説です。

この中で東京六大学野球の全盛時代だった昭和12(1937)年当時を思い出すシーンがあります。

「昭和12年の大学生は、昭和12年の日本について何を知っていたのだろうか、君たちの力で戦争を止めることはできなかったか。そりゃ無理だよ。そんなことが出来るワケがない。昭和の日本では戦争は避け難い。

 それじゃ学生は浮かれていたのだろうか、絶望していたのだろうか。それもわからない」

結局、何もわからないんですけど、印象に残っている部分です。

この小説は『婦人画報』に1961年10月号から翌年2月号に連載されています。

まだ東海道新幹線も走っていない。東京五輪の前。高度成長期のちょうど真ん中あたりです。

終戦からは15、6年後で、もう戦前のことはわからないわけですね。

2015-07-18

借り物の「物語」に踊らせていないだろうか

「あっ、これだったのか」と今ごろになって見つけました。

作家の村上春樹さんが、
中国、韓国に対する歴史認識の問題で、
<相手国が「すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、わかりました、もういいでしょう」と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません。細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実なんだから>…と発言したということで、物議をかもしたインタビューの全体を初めて読みました。

47都道府県52新聞社のニュースと共同通信の内外ニュースを束ねた総合サイト「47NEWS」で公開されてまして、
聞き手は共同通信編集委員なので、共同通信の配信ですね。
日付けは2015年4月27日でした。

(上)(中)(下)の3部構成で、
「謝るしかない」に関係するところは全体のなかではほんの一部で、
全体のテーマの「村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る」では付け足しのような印象を受けました。

僕が一番、関心を持って読んだのは、

2015-07-16

政治の「需要」と「独創」

「大衆の知恵は、決して創意などは持っていないのである」
…というのは本田技研工業を設立した本田宗一郎さん(1906~91年)の言葉で、
本田さんの著書『やりたいことをやれ』(PHP研究所)に記されています。

つまり、市場調査っていうのは有効だけど、
それは既成製品の評判を探る場合のことで、
独創的な新製品をつくるヒントにはならない。
なぜなら大衆が絶賛するのは大衆が気づかなかった新しい楽しみを提供するものだからだ、というわけです。

本田さんの「独創」への厳しい姿勢がうかがわれる言葉です。

でも、
大衆の気づかない「新しい楽しみ」は何をもとにして、
産み出せばいいのでしょうか?

途方にくれます。

一方、同書のなかにはこんな言葉もあります。

「安易な模倣に走り、独自の創意を放棄するような考え方が生まれた瞬間から、企業は転落と崩壊の道をたどり始めるだろう」

これは「独創」へのヒントになりそうです。
つまり、安易な模倣をしないことが「新しい楽しみ」を創造する条件といえるのかも。

需要は自分で作り出すものだということですね。

ところで、
需要がないのに、のさばっているものってありますよね。

2015-07-15

「生きがいについて」について語るときに僕の語ること

精神科医で、マルクス・アウレーリアス『自省録』(岩波文庫)などの翻訳や、エッセーなどで知られる神谷美恵子(1914~79)の『生きがいについて』(みすず書房)の本文冒頭は、僕にとっては衝撃でした。

<生きがいということばは、日本だけにあるらしい>という一文です。

「生きがい」を手元にある『パーソナル和英辞典』(学研)で引いてみると、
「生き」の項で「生き甲斐 ~がある be worth living」と記されて単語のように独立していない。

「生きがい」も「生きる」+「甲斐」の2語を合わせたものなので、「生きがい」という言葉が日本にしかないとはいえない…とも考えられる。

しかし、僕としては英訳との乖離が大きい気がして“神谷説”のほうが腑に落ちます。

「worth」は「価値」とか「有効性」「財産」という日本語が充てられることが多いけれど、
「生きる価値」や「生きる有効性」と、「生きがい」には隔たりを感じるからです。

2015-06-30

「帰還」からの出発

和歌山電鐵の三毛猫「ウルトラ駅長」の「たま」が亡くなったことと和歌山つながりで関係あるのかないのか…。

ふと昨年1月に91歳で亡くなった小野田寛郎さんのことが頭に浮かびました。

和歌山生まれで、敗戦から後の29年間も、戦いを続けたて、フィリピン・ルバング島から日本に帰還した人物です。

帰国は1974(昭和49)年でした。

おいくつのときだったのか、と思ってしらべたら、
誕生日(3月19日)の1週間前の3月12日に羽田空港に降り立っておられます。
51歳のとき…52歳になる直前ですから、
ほぼ今の僕と同じ年齢です。

そのとき、僕は小学5年ですから、
当時の自分の年齢の3倍近い期間、
ジャングルに潜伏して戦闘を続けていたというのは、
ドラマでもないようなことだと驚きましたし、
今でも、その感覚は変わらないのですが、
当時の印象を思い浮かべても、
小野田さんが51歳だったとは思えません。

2015-06-02

「消費税」と「戦争」

ちょうど「失われた20年」の始まりのころの1994年。その年の11月の「週刊プレイボーイ」(1日号~15日号)に掲載された吉本隆明の「日本における革命の可能性」というインタビューが大幅改稿されて、
『わが「転向」』という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを説明し、
そのうえで、

欧米の方法は
「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。

つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と解説。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
まだ、産業革命を引きずっているような時代錯誤の声も聞こえてきますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
権力者にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題からそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。
権力者が称賛を浴びる機会なんて極めて少ないのが現実ですし。


権力者は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力者」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力者」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
権力が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力者」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを示したうえで、
欧米の方法は
「こういうやり方には「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。
つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と説明。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
産業革命時代と同じような考えを堅持しているのではという「声」を聞くこともありますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
「権力」にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題から眼をそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。

「権力」は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
「権力」が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。

2015-05-17

善し悪しの基準

自分の行動を選ぶ場合の基準として、
それをやれば後悔するか、どうか…というのがあると思います。

たとえば、
お酒を呑んでいて、
これ以上、呑むと二日酔いになるのは分かるわけです。
でも、呑んでしまって、、
翌日、3軒目はやめといたらよかったなぁ、とか、

お酒を呑んだあと、
ラーメンを食べると、
体に良いとは思えませんし、
太るし、
翌日、二日酔いに消化不良が加わって、
食べなければよかった、とか…いうケースですね。

もう後悔は必然なのに、
やってしまう。
不思議です。

ですから、
ある行動を選択すれば、
後悔するということが確実ならば、
やめておくべきことは言うまでもありません。

当たり前の話です。

考えてみれば、
こんな明確な基準があるのに、
なぜ、それをもとにした行動の選択が簡単にできないうえ、
選択を間違うのか…、
それが不思議なくらいです。

つまりまぁこれは、
意志の力、
克己心の問題ですよね。

はい、わかっています。

難しいのは「後悔するかもしれない」という場合です。

「かもしれない」という不確定性が大きいことについて選択を迫られたときですよ。

これにはいろんなパターンがありますよね。

たとえば、
もうこれ以上、呑んだら、
二日酔いして後悔するのはわかっているけれど、
めったに呑めない珍しいお酒を出されて、
呑まなければ、後悔するかもしれない場合とか…。

あっ、これはもう味がわからなくなっているから、
呑まなくてもいいかも…。

う~ん、
別の例を探すと…。

たとえば、
命にかかわるかもしれない病気の治療方法の選択で、
ものすごく高価な薬を飲んだら、
完治するかもしれないけど、
副作用が強いうえに、
治ることが確実でない場合。

もしかしたら、
その薬を服用すると、
後悔するかもしれないけれど、
服用しなくても後悔するかもしれないという状況ですね。

つまり、リスクをどう考えるか。

絶対的な後悔が確信されることは、
回避するのが当然です。

しかし、不確定で確信できない場合はしかり。
そこに責任が絡んでくるとまた、
ややこしい。

結果的に後悔はしても、
個人として結果の責任を負わされるのを回避しようと、
画策すれば、
原則論に沿うのが一番、正しい選択になります。

ものすごく単純に言えば、
「平和」「平等」「護憲」「弱者救済」「争いの否定」を軸にして、
物事を語っていれば、
それは「正論」で、
異論は邪気が絡む、こじつけとか、
利己心を源にする考えとして受け付けなければいい。
無難です。


さしずめ、
日本の状況で考えると、
保守勢力の主張はほとんど間違っていて、
中国、韓国、北朝鮮の言うことが概ね正しいと主張するのが一番安全ですよね。

そのような考えを信条として持っていて、
批判はされても、
命の危険は少ない。
でも、
万が一、
日本が今後、中国の傘下に置かれるようなことになったら、
「おまえはこういう考えを流布していたよね」ってことで、
無難ではない反対の思想・信条を持っている人間は肉体的に粛清される可能性もありますから、
とりあえず、中国の主張に真っ向から反対しないのが安全です。

第二次世界大戦で敗戦国になって、
戦時中のスタンダードが否定された“教訓”もあります。

…というわけで、
きょう(2015年5月17日)は、
大阪都構想の是非を問う住民投票の日です。
これこそ、
どちらを選んでも「後悔するかもしれない」象徴的な選択という印象もあるのですが、
もしかしたら、
どちらかが選ばれることによって、
明らかに、
後悔するというよりも、
自分自身が「損」をする、
つまり、
選択の結果によって、
後悔というよりも、
自身の利益・不利益が明確な人たちばかりの声が大きいような気がします。

つまり、
ほとんどの人間には、
結果にかかわらず、
実質的な影響の少ないことに、
巻き込まれているだけかもしれません。

そのような改革は、
結果も期待してはいけないんでしょうね。

2015-05-01

武器と楽器

『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』

「多くの武器や道具は、もともと玩具だった。弓は武器になる前は楽器だったし、車輪は道具として使用される前は玩具であった」(『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』作品社)


エリック・ホッファーの著述のなかで、
一番好きなのが先に挙げた「遊び」に関する格言のなかの一節です。

この部分だけを読めば単に事実として物事を述べたにすぎず、
「芸術は実用品の製作よりも古く、遊びは労働よりも古い。〈中略〉人間の独自性と創造性の源泉は、その子どもじみたところに隠されているのであり、遊び場はその能力と才能を開花させる最適な環境なのである」
…という結論を補強する部分でしかないわけです。

でも、
武器としてよりも楽器としての弓のほうが先だったというのを初めて読んだときは嬉しかったのです。

人間がいて、
社会、国家がある限り、
「戦い」は不可避で、
だから「戦争はなくならない」という声もあるけれど、、
その戦争につきものの武器よりも、
同じ形をしているものでも、
楽器のほうの用途が先だったというのは、
論理を超えて、
嬉しい気がしませんか?

もちろん、
ホッファーは武器としての弓よりも、
楽器としての弓のほうが古いということを、
厳密な事実をもとに書いているわけではありません。
でも、
全く根拠のないことではないのでしょう。

いずれにせよ、
日本では戦時中に、
「遊び」は抑制されたようですが、
人間にとって、
楽器を奏でて遊ぶことよりも、
戦争の方が重要だとは言い切れないようですね。

もしかしたら、
ある種の“ユニーク”な人間が、
「遊び」の延長として“道楽”で、
人々を「戦争」に駆り立てている場合もあるかもしれません。

それはさておき、
「遊び」が独自性と創造性の源泉であるというのは、
納得できる話です。

だから「遊び」は真剣にやらないと面白くないのかもしれません。

ただ気をつけないといけないのは、
真剣さが行くつく先は、
「命」をかけるくらいでないと面白くなくなってくる可能性があるということです。

命をかけるのを完全に否定するわけではありません。
ただ、他人を巻き込むのはいけませんよね。

もしかして、
(それは本当に「戦争」という形かもしれないけれど)
自分の「遊び」の楽しさを追求するあまり、
真剣になりすぎて、
他人の生死にまで干渉するのは勘弁…。

本当は「遊び」なのに、
自覚せず、
何かの主義や正義、信条を盾にして、
「命」をかけるのは当然だと、
悲壮な顔をして、
他人を巻き込むのはやめてほしいですね。

遡れば、
「支配欲」というのも、
単なる「遊び心」から出ているものかもしれないし…。

とはいえ、
理不尽な抑圧への抵抗としての「戦争」もあるでしょう。
それに対して、
多くの「戦争」は理不尽への抵抗という美名のもとに始まるという意見もあるでしょう。

ただ、
どんな「戦争」からも逃避する「道」を残しておくことは必要なのだと考えています。

「自由」から逃げることを避けるためにも。

ちなみに、
どうでもいいことなんですけど、
トロンボーンって、
ロケットランチャーみたいな感じがしませんか。
僕は、します。
で、
そんなフォルムもトロンボーンの魅力だと思っています。

2015-04-29

戦争と『幸福論』


「そんなことは説明されないでもわかっている」

…と声を張り上げて怒る人間も、
たぶん…
いないだろうから書きます。

『幸福論』はフランスの哲学者、アラン(1868-1951年)の著作で、新聞に連載していたプロポ(哲学断章)のうち、
幸福に関する93の文章をまとめたものです。

文章のそれぞれの末尾に日付けが入っているけれど、
それが新聞に掲載された日なのか、
執筆日なのかは、
僕が持っている岩波文庫版(神谷幹夫訳)では不明です。

誰か知っていたら教えてください。

それぞれのプロポが、
時系列に並んでいないので、
ひとつずつ確認したら、
日付けは、1906年8月29日が一番古くて、
1926年12月20日が一番新しい。

つまり第一次世界大戦(1914-1918年)を挟んだ期間の著述となります。

そのなかで筆頭に収められているのが、
1922年12月8日の日付けがある、
「名馬ブケファラス」です。

マケドニア王アレクサンドロス三世(紀元前356-323年)に贈られた荒馬のエピソードなどをもとに「恐怖」についての思索が表現されています。

まったく危険のないものでも不意をつかれると怯えてしまうことや、
他人のいらだちの理由は意外に単純なことで、
その原因を取り除けば、いらだちも簡単に解消することを説明して、
「一九一四年の不幸(第一次世界大戦)」に言及しています。

その不幸は「要人たちがみんな、不意打ちをくらったことから生まれたのだ」「人間が怖がると、怒りは遠からず起こる」「興奮するとすぐにいらだつ」「休息している時から、突然よびもどされるのは好ましい状況ではない」「そういう時はよく気分が変わる」「寝ていて不意に起こされた時のように、目が覚めすぎてしまうのだ」と述べています。

wikipediaによると、
「第一次世界大戦が始まると46歳で自ら願い出て志願兵となり、戦争の愚劣さを体験するために好んで危険な前線に従軍した」とありますから、
「不幸」は痛感していたのでしょう。

結局「不幸」の教訓は生かされなかったわけですが、
その次の「不幸」の教訓は今のところ生かされていると言ってよいかもしれません。

しかし、油断は禁物。

国内外ともに、
不意打ちくらって、
怖がり怒るような「要人」には注意しないといけませんね。