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2015-07-17

才能と火花

「ピース」という、お笑いコンビの又吉直樹さん(35歳)の小説『火花』が16日(2015年7月)、第153回芥川賞の受賞作に決まりました。

受賞すれば、お笑い芸人では初ということで、
候補作に選ばれたときから世間から注目されていました。
そんなわけで、
僕も注目していましたが、
この日は衆院で「安保関連法案」が可決したり、台風11号が大阪にも近づいていたりで、
忘れていました。
もちろん、文化部に在籍して文芸を担当をしていたときには、
何があろうとそんなことはなかったです、念のため。

文化部にいたときは、
文芸担当でなくても、
候補作は毎回だいたい目を通していました。
芥川賞の候補作は本になっていない作品がほとんどで、
掲載されている文芸誌で読んでおかないと、
一生、読むことがない恐れが大きいということもありました。

今回の「火花」は興味があったのですが、
すでに本になっていて、
いつでも読めるということもあって、
まだ読んでいませんでした。

ウィキペディアで「又吉直樹」を調べてみると…。

2015-06-19

「桜桃忌」に考える「善」と「悪」


きょう6月19日は「桜桃忌」です。
太宰治の忌日です。
正確には1948(昭和23)年6月13日に玉川上水で心中したんですけど、
遺体が見つかったのが6日後の19日で、
その日は太宰の誕生日でもあるので、
この新戯作派・無頼派作家を偲ぶ日になったわけです。

知っているヒトには当たり前の話ですね。
中学か高校の国語で習った記憶があるし…。
でも、
知らなかった方には「あっそうだったんだ」という典型的な例かもしれません。

きのうも「ほぼ日刊イトイ新聞」を引用させてもらったんですけど、
きょうも「ほぼ日」で公開されたコンテンツからとなります。

…というのも、
「桜桃忌」に合わせて、
きょう更新された「吉本隆明の183講演」が「太宰治特集」なんです。

だから仕方がないんです(…キッパリ!)。

ちなみに「吉本隆明の183講演」は、
吉本さんの183回の講演・計21746分の音声をアーカイブして無料で公開しているプロジェクトをさまざまな趣向でコンテンツとして提供する連載企画のようなものです。

「ほぼ日」によると、
糸井重里さんは昔、
吉本さんに、
「好き嫌いという意味で、
 吉本さんが個人的に好きな作家は、
 誰ですか?」と質問したそうです。

吉本さんは、間髪入れずに、
「太宰治。宮沢賢治。
 あとは、作家じゃないですけど、
 親鸞です。好きな人といえばその3人です」
…とおっしゃったそうで、
きょうは183の講演のなかに3つあった太宰をテーマとした講演に焦点を当てています。 

その中の1993年7月28日、東京・有楽町での講演で、
実際に太宰に会ったことのある吉本さんは、

“太宰治という人は、僕がお会いしたときには、
まことに見事に、常識でいう社会的な善と悪が、
ちゃんとひっくり返っている人になっていました。
一般的に人がいいことだと思っていることは
ぜんぶ悪いことで、
悪いことだと思っていることは
ぜんぶいいことだというふうに、
揺るぎない自信で完全にひっくり返っていました。
学生時代でしたが、ああ、
すごい人がいるんだなと思ったのを覚えています”

…と語っていて、
この音声のアーカイブとリンクした「ほぼ日」のページには、
その部分が文字になって抜粋されています。

僕は銀塩フィルムのネガとポジを連想しました。

「社会的な善と悪が、ちゃんとひっくり返っている」ということは、
正確に善と悪を把握していないと再現できるものではありません。

そういう意味では太宰は「悪」を再現する木版画の版木のように、
自分のなかに「善」を刻んでいたともいえます。

だから「揺るぎない自信で完全にひっくり返って」いたような気がします。

それは僕も本当にすごいことだと思います。

人間というのは、
たとえばドラマを観たり、
小説を読んだりするときに、
主人公や作者の視線で「善」と「悪」を判断して、
感情移入します。

ところが、
そんなドラマや小説と似た状況が自分の日常で起こった場合、
「善」「悪」をまったく逆転させた行動をすることが珍しくないのでは…。

ものすごく単純な例で言うと、
テレビドラマで主人公が「非国民」とか「売国奴」だとか批難されると同情するのに、 
実は似たような場面では批難する側と同じようなことを無意識にしてしまっているみたいな…。

自分の国が戦争をしているのだから、
敵国を憎み、
自国の戦果を喜ぶという、
ある意味、当たり前の感情への想像力が遠近感がねじれてしまっていて気づかない。

別の例を上げれば、
戦時中の言論統制を批判するのに、
進歩的な発言をしながら、
言論封殺のようなことをする人々を見たこともあるような気がします。

それは、
「善」と「悪」とが曖昧だからでしょう。
曖昧であるが故に自分は「善」だと思いこんでしまえる。
責任が自分にあるとは想像もしない。

太宰はそういうことがなかった人間だとも言えるわけで、
吉本さんが「すごい」という理由もわかる気がするのです。

※画像は「かわいいフリー素材集 いらすとや」から

2015-06-13

明るい光のもとでこそ眼を凝らさなくてはいけない

太宰治の「右大臣実朝」(新潮文庫『惜別』所収)の一節によく引用される有名な一節があります。

“アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。”

…作中の「語り手」が実朝が独りごちたとして紹介する言葉です。

1978年3月から1979年2月にかけてテレビ放映されたアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』(原作:松本零士)の最終回でも、使われていたそうです。

最近では、
2011年の東日本大震災のあとに、
個人のブログなどでの引用が目立っていました。

この言葉が出てくる前に作品のなかでは、
「平家ハ、アカルイ。」という部分があります。
その流れのなかで明るさの象徴としての“驕(おご)り”と平家の滅亡が重ねられて、
多くの人がこれまで様々な思いや考えを語ってきました。

ここでは、
全く趣向の違った解釈でも示せれば、
面白いのですが、
残念ながら、
僕にはそこまでの才能がないのか、
これと言った斬新な切り口ができません。

だから、
ここでは凡庸なことを書きます…と言い訳をしておきます。

僕は明るさというと、
太陽の光と乾燥を連想します。
それから影です。

影や陰というのは一種の暗さの象徴ですよね。
「影が射(さ)す」といえば、
よくないことが起こる前兆です。

でも光と影は本来は一対のものでしょう。
陰陽論ではないけれど、
両方があってバランスがとれているのが本来の姿というわけです。

たとえば舞台の照明は、
影ができた部分の別のライトを当てれば、
影をステージからほとんどなくすことができます。
その分、客席は暗いですから、
会場のなかはバランスがとれていることになります。

影が想像できないような砂漠ですら、
夜になれば暗くなります。

世界各地を支配下に置き、
24時間、日が沈まない「帝国」っていうのも歴史上は存在しましたが、
今は過去の“栄光”です。

影を排除すると、
潤いがなくなって干からびて痩せていくのが道理です。

本来は暗いところで、すべき行動や、
暗い所に置くべきものに光を当てるのは、
あながち悪いとは言えません。
一時的には刺激になって、
活性化することはあるかもしれません。

でも、
白日のもとに晒(さら)しておくことが常態になってくると、
それはいくら瑞々(みずみず)しく見えたとしても、
乾物(ひもの)にしかすぎないのでしょう。

乾物がダメというのではなくて、
干したスルメが生きているイカとは違うということです。

「文化財」であったり、
「陰謀」であったり、
宗教的な「秘儀」であったり…。
さまざまなものが想定できますけど、
つまり闇のなかに封印されていたものが白日のもとに晒されたとき、
それは、
そのものの本来の姿なのかどうか。
色々なことが情報化されて、
デジタルデータとして拡散していくなかで、
そのような光の下にある「姿」は闇のなかにあったときと、
「かたち」や「性質」が違う可能性があることを、
僕らは忘れてはいけないだと思っています。

もしかしたら、
影のないステージの上の「劇」を見ているだけなのに、
あまりにも明るく色んなものが鮮明なので、
「真実」のように見えるだけかも。