2015-08-09

剣はペンよりも弱いか。

「安保法制法案」などの問題もあって、
「8月15日」を前に「戦後70年」に関する論議や考察が重ねられています。

僕も今、昭和史や、戦争とメディアに関する本を立て続けに読んでおりまして、
咀嚼(そしゃく)して、どのように自分の知識や意見としていけば、
いいのか検討しているところです。

「何を今さら」という叱責も聞こえてくるような気がしますが、
いろんなものを読めば読むほど、
一筋縄ではいかないという思いが強くなるんです。
その半面、
読むものの幅を広げていくと、
学問的な検証などで「間違い」だと言い切っても許されるようなことを「真実」の前提として語っているような意見もあるような気がして、
人々のアタマのなかになる歴史の多様さに、
唖然としているような次第です。

一方「新聞」というメディアの一般論にしていいのか、どうかはわからないのですが、
抽象的には「大東亜戦争=太平洋戦争」に関しては、
「新聞」が「国民」を駆り立てたというのは間違いないという気はしています。
ただ、当時、どれくらい「新聞」が影響力を持っていたのかが実感として分からず、
実質的な関与の度合いが僕の想像力では心もとない部分もあります。

それに関する話ですけど、
「ペンは剣よりも強し」という言葉があります。
言論は暴力を凌駕するということで、
ジャーナリズムの「力」を示す象徴的な言葉となっています。
ですから、
ジャーナリストは言論弾圧に屈してはいけないことになっていますし、
言論が統制されるような社会は不健全だということになっていて、
たぶん、それに異議をとなえる方はいらっしゃらないだろうし、
もし、いらっしゃったとしても、極めて少数に違いありません。
僕も、そのこと自体には異議は全くありません。
ただ、歴史のなかで、
本当にペンが剣を打ち負かした…
つまり言論が暴力を打ち負かしたということがあるのか、
どうかというと意見は分かれるのではないでしょうか。

権力の「悪行」をペンが暴きだして、
巨悪が断罪されたことはあったかもしれません。

しかし、
それは「剣」に勝つという構図とは違いますよね。

「肉体」による「暴力」に本当に「言論」で勝てるのか?

プロセス的にいうと「言論」の「啓蒙」という“煽動”に似たものによって「肉体」的な「暴力」に対峙する「肉体」「暴力」同士の対決にならなければ、
何も変わらないような気もします。

いずれにせよ、
少なくとも日本で、
新聞をはじめとした「言論」が「剣」に勝ったことってあるのでしょうか。
命を取られてしまったら、
「言論」もへったくれもないような気はしています。

何よりも「ペン」と「剣」はステージが違うと思うんです。

やはり、
「剣」には「剣」で立ち向かわないと効果がないような気がしています。
危ないことを言っているように聞こえますか?
もちろん「言論」を否定しているわけじゃないんです。
メディアの影響は小さくないですしね。
それに「言論の暴力」は時には人間を殺傷します。

だから「言論」は歪(いびつ)な諸刃の剣かもしれません。
客観的に正確かどうかを超えて、
「権力」を含めた何かの意図を増幅して、
その「権力」に敵対する「権力」を弱体化させることはできますが、
「権力」から直接、喉元に「剣」を突きつけられると、
すぐに排除する術を持たない場合もあります。

「ペン」は危険でもあるんですけど、
基本的には物理的な「剣」には負けることを自覚したうえで、
ジャーナリズムを考えないといけない、
そう思いました。
たとえば「戦争」のなかには直接、武器・弾薬で衝突する武力戦のほか、
「情報戦」などもありますが、
「ペン」はそこで加担して大きな力になり得ることも、
危険さの裏返しですし、
その行為の正しさは何によって担保されるのか、も難しいところです。

何だか歯切れが悪いですね。

グローバル化していると言われる世界のなかで、
従前のジャーナリズムとは違う「ペン」の“創造”が必要なのかも…。

「サイバー戦」という概念が出てきましたが、
これと「情報戦」との違いを明確に意識した「剣」としての「ペン」のようなものがイメージできると思っていますし、
「アノニマス」や「ウィキリークス」の活動が参考になるかもしれません。

※2015年8月10日に一部加筆

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