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2015-06-17

至福のとき

カーティス・フラーの「Vol.3」。眠る前に聴く定番のひとつです
だいたい毎日、午後10時前、早ければ9時にはベッドに入ります。
午前5時には起きるという生活です。

これが僕に一番、合っている生活パターンのようで、
以前、一線にいたころ、
午前1時、2時まで仕事をするのが日常、
夏なんか夜が明け始めたころに帰宅して、
シャワーを浴びて、
ベッドでウトウトしたら、
朝駆けのために呼んでいたクルマが迎えに来るというのも珍しくはなかった時代が嘘のようです。

あのころ何を楽しみにして生きていたんだろ?とも思うわけですが、
それはそれで、
なかなかエキサイティングで楽しかったんです。

今は何が楽しみかというと、
夜、ベッドに入って、
カーティス・フラーとか、
J.J.ジョンソンとか、
ジャックティー・ガーデンとかJAZZトロンボーン奏者がリーダーとなったアルバムなんかを聴きながら、
本を読む、
これがものすごく幸せです。
雷蔵くん(ネコ、サバトラ、♂、2歳)や球太郎くん(ネコ、シロキジ、♂、1歳、愛称:Qちゃん)も寝室に入ってきて、
僕のお腹や太ももを敷物や枕の代わりにして、
ジーっとしていて、
これが幸福度を増幅してくれます。

なんで、
こんなのが幸せだと思うのか…。

北新地のクラブで、
きれいなおねーチャンをはべらして、
高い(「たっかい」と発音してください)酒のボトルを開けて、
遊んでいんるほうが幸せではないのか!

「否」と自信を持っては言えません。

北新地のクラブで、
きれいなおねーチャンをはべらして、
高い酒のボトルを開けて遊んだことがないからです。

ですから、
あんまり説得力も普遍性もないとは思うのだけど、
自分のベッドで、
音楽をバックに、
ネコたちと一緒に本を読むくらいのことが何で一番幸せなのか、
…という一点に集中して考察せざるを得ないわけです。
ご理解、ご了承ください。

これって難しく考えればいくらでも、
言葉を費やすことができると思います。
たとえば難民が増え続ける国際情勢とか、
医学的な側面からアプローチするとかね。

でも経験的に言えるのは、
この手のことはものすごく考えて、
実証的に証明していくと、
答えが整合性を持つのに比例して、
実感と離れていくというのはありませんか。

いくら引力とか重力の説明をされても、
地球がまるいことが感覚的にはわかりにくいように。

もちろん学問的に考えることは大切です。
否定はしませんし、
僕は学問的アプローチを尊重します。

それはさておき、
僕の幸福の理由です。

なぜ、
ベッドで、
音楽をバックに、
ネコたちと一緒に本を読むくらいのことが何で一番幸せなのか…。

まず、
不安がないからでしょうね。
それから昼間にあった嫌ことも、
いいことも忘れているから、
怒りも、
高揚感もない。

自分の意識と身体が現在とぴったり重なっていて、
明日、突き詰めれば次の瞬間どうなるのか別にして、
今は問題なし。
さらには自分がどこの誰でというのも意識していなくて、
ただ、在るだけ。

明日もこうだと良いなということすら思わない…。

つまり何も考えていないから幸せみたい。

それがいいことなのかどうかはよくわからないけれど、
こんなコンディションのときには、
不意の出来事があっても、
冷静に対処できるということは経験済みです。

ただ、
激しく腹が立つことがあった、とか、
今、身の上に起こっている、とか、
明日、ものすごく嫌なことがある場合は、
そんなわけにいかないことがあるのも事実です。
どんなときでも、
どんな情況、
どんな場所でも、
眠る前は幸せでいたいもので、
もっというと、
幸せだとかも意識しないくらいになれるはずと信じています。

2015-04-29

戦争と『幸福論』


「そんなことは説明されないでもわかっている」

…と声を張り上げて怒る人間も、
たぶん…
いないだろうから書きます。

『幸福論』はフランスの哲学者、アラン(1868-1951年)の著作で、新聞に連載していたプロポ(哲学断章)のうち、
幸福に関する93の文章をまとめたものです。

文章のそれぞれの末尾に日付けが入っているけれど、
それが新聞に掲載された日なのか、
執筆日なのかは、
僕が持っている岩波文庫版(神谷幹夫訳)では不明です。

誰か知っていたら教えてください。

それぞれのプロポが、
時系列に並んでいないので、
ひとつずつ確認したら、
日付けは、1906年8月29日が一番古くて、
1926年12月20日が一番新しい。

つまり第一次世界大戦(1914-1918年)を挟んだ期間の著述となります。

そのなかで筆頭に収められているのが、
1922年12月8日の日付けがある、
「名馬ブケファラス」です。

マケドニア王アレクサンドロス三世(紀元前356-323年)に贈られた荒馬のエピソードなどをもとに「恐怖」についての思索が表現されています。

まったく危険のないものでも不意をつかれると怯えてしまうことや、
他人のいらだちの理由は意外に単純なことで、
その原因を取り除けば、いらだちも簡単に解消することを説明して、
「一九一四年の不幸(第一次世界大戦)」に言及しています。

その不幸は「要人たちがみんな、不意打ちをくらったことから生まれたのだ」「人間が怖がると、怒りは遠からず起こる」「興奮するとすぐにいらだつ」「休息している時から、突然よびもどされるのは好ましい状況ではない」「そういう時はよく気分が変わる」「寝ていて不意に起こされた時のように、目が覚めすぎてしまうのだ」と述べています。

wikipediaによると、
「第一次世界大戦が始まると46歳で自ら願い出て志願兵となり、戦争の愚劣さを体験するために好んで危険な前線に従軍した」とありますから、
「不幸」は痛感していたのでしょう。

結局「不幸」の教訓は生かされなかったわけですが、
その次の「不幸」の教訓は今のところ生かされていると言ってよいかもしれません。

しかし、油断は禁物。

国内外ともに、
不意打ちくらって、
怖がり怒るような「要人」には注意しないといけませんね。