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2015-10-29

いくつに見える?

桂枝雀(1939~1999年)の人気の演目のなかで代表格のひとつといえば「代書」です。異論があるかもしれませんが、そういうことにさせてください。

履歴書をつくってもらうために代書屋に来た松本留五郎が“主人公”です。

生年月日を言ってください、と言われたら「セーネンガッピ」と言ってしまうような人物ですから埒(らち)が明きません。

代書屋が「一体お幾つですねん?」と聞くと自信満々で「26です」と答えるのですが、代書屋は怪訝(けげん)な顔で「どう見ても40過ぎてまっせ」。だいたい、ここで客席からは笑いが起こりますね。

留五郎が、親父が死ぬ間際に、そう教えてくれたと言い張ると、小さめの笑い声が上がり、代書屋が「親父さん、いつ死なはったんです?」と聞くと「さあ、今朝もそれ、嬶(かか)と話することだっせ。『早いもんやなあ、おい、親父が死んでもう20年になるでェ』言うて」で大爆笑というような噺です。

年齡といえば、記者時代に取材で困ったことが何度もありました。日本の新聞って、だいたい取材相手の年齡を入れるんですね。芸能人なんかで公表していない場合や、ご覧になるとわかりますけど、政局、海外の政治経済のニュースなんかは別にして、だいたい年齡は入ってます。プロスポーツ選手の年齡をいちいち入れているのなんて日本くらいかもしれません。

駆け出しのころ、イベント取材なんかでコメントを取った来場者の年齡を聞き忘れてデスクに怒られた経験を持つ記者は少なくないはず。

2015-08-05

官僚は「豪放磊落」で「気さく」なんです

最近はどうだか、よく知らないけど、
新聞なんかで官僚なんかが昇進したときに、
その人柄を紹介する記事で、
「官僚のイメージとはかけ離れた豪放磊落な雰囲気」とか、
「これまでの経歴とは重ならない気さくな語り口」とかいった表現があったように記憶しています。
もしかしたら、
本当はないのかもしれませんけど、
僕の記憶にはあります。

なぜなら読みながら、
「よくもこんな原稿が活字になったなぁ」と思った覚えがあるからです。

2015-05-03

28年が過ぎて

毎年「5月3日」を迎えるたびに、
いら立ちに似た感情を覚える。
歯がゆさにも近い思いだ。

1987(昭和62)年5月3日、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)が散弾銃を持った人物に襲撃された。
同支局2階にいた2人が撃たれ、
小尻知博記者(当時29歳)が亡くなった。

僕は記者になって3年目を迎えたばかりの駆け出しだった。

いら立ちや、
歯がゆさのような気分を感じるのは、
まず「犯人」が捕まらないことが原因。
それは明確である。

そして、
未だに、
この事件全体を正確に表現する言葉を自分が持ちあわせていないことだ。

当時の報道が、
従前の「事件取材」の方法や表現でなされたことへの疑問は、
すでに書いていて、
その原稿が収められた本も出版されたけれど、
それとはまた異なる。

「言論に対する暴力での弾圧」には違いないのだろうけど、
一眼式のレンジファインダーカメラの焦点が定まらず、
二重像が微妙にずれているような気がする。

「事件」は自分の「外」にある「非日常」だという感覚から、
抜け出せない違和感が原因かもしれない。

…と書きながら、
そんな複雑な表現をすることがいけない…とも自戒する。

簡単にいうと、
他人事(ひとごと)の域を出ていないという嫌悪感だ。

あれから時間が過ぎて、
世の中の状況も人々の意識も変化した。
つまり、
「事件」があった当時の時代と今の空気は違ってきた。
それが良い悪いの問題ではない。

よく「風化」という言葉が使われるが、
現実には
変わっているのは「事件」ではなく、
自分たちなのだとあらためて思い知る。
過去の事実は変わらない。
現在の我々が変わるのだ。

他人事にしてしまっている嫌悪感に話を戻すと、
結局、
端的に言えば、

自分に銃口が向けられる可能性があるとき、
それが言論に関わる問題ならば、
自分の勇気が恐怖を克服できるか、
その自信が確固たるものではないことに嫌悪感を覚えさせるのだろう。

恥ずかしいと思う。
そして、
恥ずかしいと思うことを免罪符にはしてはいけないのは当然だが、
恥ずかしいという気持ちの次へ進むために、
恥ずかしいという感覚は土台として持っておきたい。
この「事件」を適切な言葉で表現するために。