2015-06-13

明るい光のもとでこそ眼を凝らさなくてはいけない

太宰治の「右大臣実朝」(新潮文庫『惜別』所収)の一節によく引用される有名な一節があります。

“アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。”

…作中の「語り手」が実朝が独りごちたとして紹介する言葉です。

1978年3月から1979年2月にかけてテレビ放映されたアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』(原作:松本零士)の最終回でも、使われていたそうです。

最近では、
2011年の東日本大震災のあとに、
個人のブログなどでの引用が目立っていました。

この言葉が出てくる前に作品のなかでは、
「平家ハ、アカルイ。」という部分があります。
その流れのなかで明るさの象徴としての“驕(おご)り”と平家の滅亡が重ねられて、
多くの人がこれまで様々な思いや考えを語ってきました。

ここでは、
全く趣向の違った解釈でも示せれば、
面白いのですが、
残念ながら、
僕にはそこまでの才能がないのか、
これと言った斬新な切り口ができません。

だから、
ここでは凡庸なことを書きます…と言い訳をしておきます。

僕は明るさというと、
太陽の光と乾燥を連想します。
それから影です。

影や陰というのは一種の暗さの象徴ですよね。
「影が射(さ)す」といえば、
よくないことが起こる前兆です。

でも光と影は本来は一対のものでしょう。
陰陽論ではないけれど、
両方があってバランスがとれているのが本来の姿というわけです。

たとえば舞台の照明は、
影ができた部分の別のライトを当てれば、
影をステージからほとんどなくすことができます。
その分、客席は暗いですから、
会場のなかはバランスがとれていることになります。

影が想像できないような砂漠ですら、
夜になれば暗くなります。

世界各地を支配下に置き、
24時間、日が沈まない「帝国」っていうのも歴史上は存在しましたが、
今は過去の“栄光”です。

影を排除すると、
潤いがなくなって干からびて痩せていくのが道理です。

本来は暗いところで、すべき行動や、
暗い所に置くべきものに光を当てるのは、
あながち悪いとは言えません。
一時的には刺激になって、
活性化することはあるかもしれません。

でも、
白日のもとに晒(さら)しておくことが常態になってくると、
それはいくら瑞々(みずみず)しく見えたとしても、
乾物(ひもの)にしかすぎないのでしょう。

乾物がダメというのではなくて、
干したスルメが生きているイカとは違うということです。

「文化財」であったり、
「陰謀」であったり、
宗教的な「秘儀」であったり…。
さまざまなものが想定できますけど、
つまり闇のなかに封印されていたものが白日のもとに晒されたとき、
それは、
そのものの本来の姿なのかどうか。
色々なことが情報化されて、
デジタルデータとして拡散していくなかで、
そのような光の下にある「姿」は闇のなかにあったときと、
「かたち」や「性質」が違う可能性があることを、
僕らは忘れてはいけないだと思っています。

もしかしたら、
影のないステージの上の「劇」を見ているだけなのに、
あまりにも明るく色んなものが鮮明なので、
「真実」のように見えるだけかも。

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