2015-06-04

「マイナス力」を極める

京セラフィロソフィ
「20億円」ですよ。
トミーズ雅じゃなけど「20円、置く」のと違いますよ。

産経関西」によると、
「鹿児島市出身の稲盛和夫・京セラ名誉会長は2日、鹿児島県庁で記者会見し、同県と同市に10億円ずつを寄付すると発表した」
…そうです。
念のために書くとそれぞれに10億円なんで、計20億円です。

サマージャンボ宝くじも真っ青です。

まぁ、稲盛さんはいろんなところにすでに巨額の寄付をされているので、それほど驚くことじゃないんでしょうけどね。

20億円って1年に2000万円ずつつかっても、
…100年なくならない。

それはさておき、
その稲盛さんの著書のひとつに『京セラフィロソフィ』(サンマーク出版)があります。

京セラグループの社員などに伝えてきた経営哲学・指標をまとめた本です。

稲盛さんが色々なところで書き、お話しになったことでしょうが、
この書のなかに、
「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という公式が示されています。

たとえばAさんは能力が「2」で、Bさんは「5」だとします。
Aさんの熱意が「5」で、Bさんが「3」の場合でも、
その時点で結果に反映されるのは、
Aさんが「10」、Bさんが「15」なので、
まだBさんの方が勝っています。
でも、

Aさんの考え方が「5」、Bさんがネガティブな性格で考え方がマイナス…たとえば「-3」ならば、
Aさんの結果が「50」になるのに対して、
Bさんはマイナスに反転して「-45」になってしまい、
Aさんが95ポイントも上回るというわけです。

また、言うならば、どれかひとつでも「0」ならば、
結果は「0」です。

つまり、「0」がひとつでもあれば結果はすべて「0」。

しかし、この年齢になると、
能力なんて若者の平均が10だとすると、
僕の場合、「0」どころか、どう考えてもマイナスになってしまいます。
もうこれからは何をやっても結果はマイナスになりそう。

でもよ、
考えてみたら、マイナス×マイナス=プラスです。
…ということは、
あとは熱意か考え方のどちらかをマイナスにすれば、
結果はプラスになります。
赤瀬川原平さんの著書に『老人力』(ちくま文庫)ってのがありましたけど、
加齢によるマイナスもプラスに転じることは可能ってことですね。

能力がどうしょうもないなら、
考え方か熱意のひとつをプラスに維持して、
どちらかは、
逆転の発想でマイナスからアプローチすれば、
別のものが化学反応的に生まれるかも。
考え方も熱意も中途半端にではなく、
マイナスを極めれば、
浮かぶ瀬もありということみたい。

なんだか希望が湧いてきました。
さすが稲盛さんです。

2015-06-03

梅雨を快適に楽しく過ごす


朝、起きたら雨音が…。
それももう舐めまわすというか、
大粒の雨が隙間なく地面を打ち付ける容赦のない音です。

大阪も今週中…遅くても来週初めには梅雨入りするという予報です。

ところで、
最近、待ち遠しいという気分になることが少なくなりました。
ちなみに年齢を重ねると、
月日の経つのを早く感じる原因のひとつが、
この待ち遠しいという楽しみが少くなるからだと聞いたことがあります。
お年寄りのなかに、
「もう死ぬのが待ち遠しい」
「早くお迎えが来てほしい」
…とおっしゃる方がいますけど、
そんな方のなかにも、
「朝、起きたと思ったら、もう夕方」
「きのう正月を迎えたような気がするのに、もうクリスマス」
…とこぼしている方は少なくないので、
やはり、お迎えが「待ち遠しい」というのは本音ではないかもしれませんね。
ただし、老人特有の症状(ボケともいう)で、
記憶がおかしくなっているだけという可能性もあるけれど…。

それはさておき、
僕も「待ち遠しい」ことは少なくなりましたが、
梅雨明けだけは、待ち遠しいです。
梅雨入り宣言の前から、
梅雨入りが待ち遠しくて、
去年の梅雨明け宣言があった日から、
翌年の梅雨明けが待ち遠しかったほどです。

なんで、
そんなに梅雨が嫌なのか…。
別に決定的に悪い思い出があって、
トラウマになっているわけでもないんです。
農作物が育つのにも欠かせないし、
空梅雨は水不足の原因にもなります。

まぁ、梅雨の間に最低2本の傘をなくす、
洗濯物が乾きにくい、
ジメジメして汗ばんで自分の加齢臭で気を失いそうになる、
…とか色々と理由はありますけど、
やはり、
抑圧感を覚えるせいじゃないですかね。

「夏っ!」っていうと、
解放的で開放感があって、
青い空の下で、
白い砂浜を思っきり駆けるみたいなイメージがあるじゃないですか。
カルピスのコマーシャルみたいで、
実際にそんなことをしたら、
熱中症になったり、
心臓がどうにかなりそうな年頃だけど。

そのスカーッとした夏の到来に、
通せんぼするのが「梅雨」なんで、
なんか赤信号が変わるのを待っている気分になるんでしょうか。

赤信号なら、
「みんなで渡れば怖くない」(byビートたけし)
かもしれないし、
安全を確認すれば、
フライングも可能です。

ところが、
梅雨はそうもいきませんもんね。
日本国民全員が「とにかく梅雨が明けたことにしようぜ」っていっても、
空はおかまいなし。
無視されてジトーっと梅雨は続きます。

でね、
考えたわけです。
梅雨が終わったら悲しい、
いかないで梅雨、
梅雨終わったの?早っ!
…みたいな気分になる方法はないもんでしょうか。

ひとつ思いつきました。
梅雨明けまでは、
雨が降った日だけ酒が飲めるっていうのはどうでしょう。
晴れたら飲めないんです。
で、梅雨明け宣言があったあと1週間禁酒しないといけない。
これなら雨雨ふれふれ、梅雨よ明けるなっていう気持ちになるんじゃないでしょうか。

でも守れそうにもないからやめました。
梅雨の晴れ間のビールは格別ですから。

じゃあ雨を楽しむのはどうか。
たとえば傘を持たない。
カバンにビニール袋だけ用意しておいて、
雨の日はもう服を脱いで、
海パン!
服はビニール袋に入れて、
悠々と雨をシャワーみたいにして歩く。

……すみません。
たぶん警察に通報されて捕まるか、
動画を撮影されてyoutubeで公開されて笑いものになるのがオチですね。

でも若い女性がビキニで街中を歩くのは可かもね。
梅雨限定で。
梅雨の街中用おしゃれ水着なんか発売してほしいです。
それなら梅雨は天国、眼の正月です。
誰かやってくれませんかね。

※写真は「Pixtabay」から

2015-06-02

「消費税」と「戦争」

ちょうど「失われた20年」の始まりのころの1994年。その年の11月の「週刊プレイボーイ」(1日号~15日号)に掲載された吉本隆明の「日本における革命の可能性」というインタビューが大幅改稿されて、
『わが「転向」』という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを説明し、
そのうえで、

欧米の方法は
「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。

つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と解説。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
まだ、産業革命を引きずっているような時代錯誤の声も聞こえてきますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
権力者にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題からそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。
権力者が称賛を浴びる機会なんて極めて少ないのが現実ですし。


権力者は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力者」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力者」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
権力が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力者」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。という文藝春秋発行の本に収録されています。

この中で吉本は、
日本ではほぼすべての商品に一律に消費税が課されているのに対して、
欧米では生活必需品や食料は課税対象から除外され、
主に「選択消費」の部分に課せられることを示したうえで、
欧米の方法は
「こういうやり方には「当然、反論があるでしょう。国家の歳入を選択消費というあやふやで流動的なものに頼っていいのか、と。しかし僕は逆だと思う」と主張します。
つまり、
選択的になることによって、
「国民は税金を収める際に、消費を増やすか減らすかによって、いくらでも税額を調整できるからです」というわけで、
「今の政府に税金を納めたくなければ、消費を控えればいい。これは消費による、一種の国民投票のようなものです」と説明。
「こういう権利を国民の側に引き寄せるということは、政府に対して国民がより自由になり、政府をコントロールできるようになるということです」としています。

米国独立戦争(1775~1783年)のスローガンの一つが、
「代表なくして課税なし」で、
税金が独立への大きな要素になっています。

ちなみに吉本がここで納税による税額調整の主体を「国民」としていることは重要で、
「外国人」は含まれていないことはちゃんと頭に置いておきましょう。

何が言いたいか。
僕らは今、
社会の少子高齢化の流れのなかで、
このままでは今の医療、年金といった社会保障は維持できませんよ、
と脅されています。
で、
消費税は5%から8%に上がり、
10%になることも予定されています。
世の中の空気としては、
「しゃあないな」って感じになっています。

でも、
どこまで本当なんでしょうか。

僕はいくら数字を見せられても、
完全には信用できません。
ここでは細かい数字は省きますが、
実際、消費税の使いみちは曖昧です。

国家にとって「徴税」は大きな権力のひとつです。
どんな馬鹿らしい税金だって、
法律で定められれば、
納めないと違法になってしまいます。

でも今が民主主義の世の中だとしたら、
税金は昔の年貢と同じじゃない。
官僚が年貢と同じだと思っていたとしても、
それは明確に誤認です。

そういう意味で「衣食住」の最低限の部分が課税の対象にならなければ、
僕らは政府・官僚を支持するかどうかを消費によってコントロールできる余地を多くできます。

また吉本は納税の主体を「国民」としましたが、
選挙権のない未成年や外国人も、
この一種の「国民投票」に参加できます。

そこの“投票権”の部分で異論を持つ「有権者」がいるかもしれませんが、
現状では納税を最大限、合法的に拒否するのは、
生活保護の受給が最も簡単というのが実態ではないでしょうか。
やはりこれは不健全という印象を受けます。

それなら、
所得や健康保険、年金などにかかる徴収額をもっと下げたうえで、
最低限の衣食住に関するものは除外して、
消費税を25%くらいにして、
「国民投票」としての選択消費にするほうが合理的な気がします。

実際、グローバル化の進展で、
ITをベースにしたビジネスの場合、
サーバをタックスヘイブンの地域に置けば、
日本の課税を逃れる方法もあるでしょうし、
国籍はそのままにして、
税金の安い国に引っ越してしまう方法もあります。

そういう意味で、
以前、このブログの「大革命の条件」に書いたことに関係してきますが、
現在は「個人」の力が強くなっています。

明治以降の「国家」と「個人」の関係は壊れて、
「富国強兵」なんていうのがピント外れなことは言うまでもありません。
産業革命時代と同じような考えを堅持しているのではという「声」を聞くこともありますが…。


もちろん「国家」という枠組みは、
大切です。
ですから、そこに付随する「軍事」も重要です。

一方で、
国家が持つ大きな権力は先に述べた「徴税」と、
「軍事」です。
世界史を見ても、
結局、世の中を大きく変えたのは、
「カネ」「暴力」…そして「宗教」です。
また権力者が「国民」から大きな賛美を浴びるのも、
「戦争」の「勝利」です。

「戦争」っていうのは命がかかった非常事態なんで、
たとえば、ある国に「重大な問題」があった場合でも、
ひとまず「戦争」が起これば、
「国民」の関心はそちらに向かいます。

そういう意味で、
「権力」にとって「戦争」状態をつくることは、
「国民」の関心を深刻な問題から眼をそらせ、
その勝利の末には多大な称賛を浴びるチャンスであることも忘れてはいけないのでしょう。

「権力」は常に「戦争」ができる状態を担保することに、
インセンティブがあるとも考えることができます。

一方で、
自国の「権力」がそのような素振りを見せたときに過剰反応するのも禁物です。
なぜなら、
他国の「権力」にとっても「戦争」のインセンティブは同じといえるからです。
それにも対抗しなければいけない。

ただ、瓦解しやすい「国」ほど、
「国民」が「団結」するために「戦争」が必要になってくるという言い方ができるかもしれません。
ですから、
分断されている国、
多民族国家、
「権力」が偏在する国…はある意味、
常に「戦争」を必要としているかもしれません。

そういう意味で、
日本は幸福です。

いずれにせよ、
「IT革命」によって、
「国家」と「個人」の関係は変化したといえます。
国家機密の漏洩に「個人」が大きな影響力を持てるようになったことが、
そのひとつです。

ただ「アラブの春」の結果が示すように、
「個人」の単純な集積は「国家」と交換可能(alternative)なものでないことも事実です。

その微妙な状況のなかで、
僕らは「権力」が「徴税」や「軍事」を盾にするときに、
それが「権力欲」から出たものではないかどうかを、
感覚を研ぎ澄ませて見極めなければいけないのでしょう。

2015-06-01

「ユリイカ」の「桂米朝」特集


久しぶりに「ユリイカ」を買いました。
知らない方も多いでしょうけど、
「ヤリイカ」とか「スルメイカ」とは関係ありません。
お造りにしたら、
醤油にワサビでもショウガでもいけそうですが、
「詩と批評」の月刊誌です。

正直の話、もう休刊とか廃刊になっているのでは、
と思っていまして…。

不謹慎にも、
乾物のほうの「スルメ」が頭に浮かんできてしまいました。

最近、書店の文芸雑誌のコーナーに行くこともほとんどなかったし…。
大学時代とか就職して文化部勤務のときは、
けっこう読んでいたのですけどね。

そんな意識の範疇外になっていた雑誌を手にしたのは、
6月号が「桂米朝」特集だったからです。
「ユリイカ」が「米朝」特集をしていたのを知ったのはネット上で、
たまたま。
もう少しで一生気づかなかったかもしれません。

勤務先の大先輩、先輩も執筆なさっていました。

何よりインタビューがたっぷりあるのがいいです。
桂ざこば師、桂米團治師、月亭可朝師、上岡龍太郎師…。
特に可朝師には「毒舌」とも言ってもいい内容もあって、
テレビなんかではオンエアできないかもという部分も…。

小学校教諭をされているお孫さんが大学の卒業論文を改稿された「米朝一門の師弟愛」という記事には、
内弟子生活のスケジュールのほか、
お弟子さんから見た「米朝」像などがアンケート形式でまとめられて、
普通にはない趣向です。

僕はナマの高座は2回しか見たことがないのですが、
この特集を読むと、
「米朝」という人間がすごく立体感を帯びてくるというか、
もしかして近くで拝見したら、
こんな顔にはどのような皺(しわ)があって、
匂いはこういう感じで…と思えるような内容です。

亡くなって、
さらに生きている。

まさに「名人」のお手本ですね。

米團治師が、
「落語というのは想像の芸ですから、落語会に足を運んでいただいてもいいし、録音を聴いていただいても、本で読んでいただいてもいいのです。どんなスタイルであれ自分の頭のなかに世界が描ける。落語というのは庶民の日常、市井が描かれている作品がほとんどです。ああ、今日も生きてきてよかったな、きょうも平凡やけど、幸せやったなと言いながらいつしか死んでいくという、本当に日常なんだけども平和で幸せな空間のお話なんです。落語の世界の奥深さ、嫌なひとの出てこない、みんなでなんとかしようやという現世肯定のひとの生きざまの世界です。それを想像できる芸なので、どんなかたちでもいいから、なかなかいいものですよ、よかったら落語の世界に首を突っ込んでみてください」
…とおっしゃっています。

米團治師が「庶民」かどうかは別にして、
当たり前だけの説明なんですけど、
落語の魅力を伝える良い言葉ですね。


2015-05-31

病と政治


「高橋和巳(たかはし・かずみ)」と耳にしても、

30代より下の年代でピンとくる方はほとんどいないかも。

ジャイアンツの投手だったヒトじゃないですよ。
あれは、
「高橋一三」

小説家で中国文学者で京都大学の助教授もつとめました。
1971年、癌(がん)で亡くなりました。
享年39ですから、早逝といってもいいと思います。

小説『日本の悪霊』は黒木和雄監督で映画化もされました。

全共闘世代…いわゆる団塊の世代の支持を得た人物で、
僕が同志社に通っていた1980年代前半でも、
それなりに読まれていたという印象があります。
ただ、
毎日、ヘルメットをかぶった学生がキャンパス内でデモをしていたような“ガラパゴス”環境だったので、
世間一般の大学の事情とは違うかもしれません。

『高橋和巳エッセイ集「孤立無援の思想」』(旺文社文庫)に、
「思うに内臓の一部分、たとえば心臓がむやみに気にかかるという状態は、その人の心臓が病んでいることを意味するように、わたしたちにとって、政治のことが気懸りなのは、人間が人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分があることを意味する」
…という一節があります。

そして…
「しかし、もし幸運にも病苦を忘れうるなら、私は必ずしもその忘却や無関心を非難はしない」
…と続きます。

1963年に書かれています。
この文章に出てくる「政治」は、
別の言葉に言い換えられるでしょう。
たとえば、「政治」と不可分ですけどれど、
「国際関係」ですね。

もっと具体的な例では「福島第一原発事故」もそうでしょう。

ただ、高橋和巳はここでは、
「政治」に限定しています。
そのうえで、
「最大多数の最大幸福を意志する政治」は、
「百万人が前に向って歩きはじめているとき」に、
顔を覆って泣いて、その“行進”に参加しない脱落者を見捨てるが、
「文学者」は、
百万人の隊列の後尾で、
(理由はなんであるにせよ)「うずくまって泣く者のためにもあえて立ちどまるものなのである」と断言しています。

本来の高橋和巳の意図は別して、
僕にとって、
この文章の示唆するものは、

おおまかに2つあります。

「政治」の問題を解決するのは、
緊急避難的な弥縫策である場合が多く、
問題が解決したと見えても、
副作用があったり、
新たな火種を生んだりして、
人間の根源的問題は残るということ。

そして、
もうひとつは、
本当に病んでいる部分があるのに、
別のことに気を取られたり、
痛みが現実になっていなかったりするため、
忘却や無関心が起こるということ。

この2つを「文学者」ではない僕が、
自分なりに総合すると、
「政治」で改善できるのは弥縫策が奏効する問題がほとんどなので、
「政治」に依存せず、
「個人」が自律的に解決していくことが大切だけど、
今、自分に痛みがないからといって、
「政治」が解決できる問題に無関心であったり、
忘れてしまったりしてはいけないということ。

そして自分の身体を気遣うように、
「人間の生活を律する自律的道徳から経済的調整にいたる幅の大きな部分に激しく病んでいる部分」を意識することが大切なんでしょうね。

ちなみに、
床屋談義が盛り上がることを、
政治への関心の高まりと誤解してはいけないような気がしています。
先の「大阪都構想」の住民投票への議論は、
床屋談義の盛り上がりにすぎなかったかも。
「変化するか、しないか」ではなく、
「どのように変化するか」かが問われたのに、
投票が終わってみれば、
みんなが傍観者になっているような気がして…。

痛みのない変化はない。

「病」からの回復には痛みはつきものなんだと思います。