2015-06-19

「桜桃忌」に考える「善」と「悪」


きょう6月19日は「桜桃忌」です。
太宰治の忌日です。
正確には1948(昭和23)年6月13日に玉川上水で心中したんですけど、
遺体が見つかったのが6日後の19日で、
その日は太宰の誕生日でもあるので、
この新戯作派・無頼派作家を偲ぶ日になったわけです。

知っているヒトには当たり前の話ですね。
中学か高校の国語で習った記憶があるし…。
でも、
知らなかった方には「あっそうだったんだ」という典型的な例かもしれません。

きのうも「ほぼ日刊イトイ新聞」を引用させてもらったんですけど、
きょうも「ほぼ日」で公開されたコンテンツからとなります。

…というのも、
「桜桃忌」に合わせて、
きょう更新された「吉本隆明の183講演」が「太宰治特集」なんです。

だから仕方がないんです(…キッパリ!)。

ちなみに「吉本隆明の183講演」は、
吉本さんの183回の講演・計21746分の音声をアーカイブして無料で公開しているプロジェクトをさまざまな趣向でコンテンツとして提供する連載企画のようなものです。

「ほぼ日」によると、
糸井重里さんは昔、
吉本さんに、
「好き嫌いという意味で、
 吉本さんが個人的に好きな作家は、
 誰ですか?」と質問したそうです。

吉本さんは、間髪入れずに、
「太宰治。宮沢賢治。
 あとは、作家じゃないですけど、
 親鸞です。好きな人といえばその3人です」
…とおっしゃったそうで、
きょうは183の講演のなかに3つあった太宰をテーマとした講演に焦点を当てています。 

その中の1993年7月28日、東京・有楽町での講演で、
実際に太宰に会ったことのある吉本さんは、

“太宰治という人は、僕がお会いしたときには、
まことに見事に、常識でいう社会的な善と悪が、
ちゃんとひっくり返っている人になっていました。
一般的に人がいいことだと思っていることは
ぜんぶ悪いことで、
悪いことだと思っていることは
ぜんぶいいことだというふうに、
揺るぎない自信で完全にひっくり返っていました。
学生時代でしたが、ああ、
すごい人がいるんだなと思ったのを覚えています”

…と語っていて、
この音声のアーカイブとリンクした「ほぼ日」のページには、
その部分が文字になって抜粋されています。

僕は銀塩フィルムのネガとポジを連想しました。

「社会的な善と悪が、ちゃんとひっくり返っている」ということは、
正確に善と悪を把握していないと再現できるものではありません。

そういう意味では太宰は「悪」を再現する木版画の版木のように、
自分のなかに「善」を刻んでいたともいえます。

だから「揺るぎない自信で完全にひっくり返って」いたような気がします。

それは僕も本当にすごいことだと思います。

人間というのは、
たとえばドラマを観たり、
小説を読んだりするときに、
主人公や作者の視線で「善」と「悪」を判断して、
感情移入します。

ところが、
そんなドラマや小説と似た状況が自分の日常で起こった場合、
「善」「悪」をまったく逆転させた行動をすることが珍しくないのでは…。

ものすごく単純な例で言うと、
テレビドラマで主人公が「非国民」とか「売国奴」だとか批難されると同情するのに、 
実は似たような場面では批難する側と同じようなことを無意識にしてしまっているみたいな…。

自分の国が戦争をしているのだから、
敵国を憎み、
自国の戦果を喜ぶという、
ある意味、当たり前の感情への想像力が遠近感がねじれてしまっていて気づかない。

別の例を上げれば、
戦時中の言論統制を批判するのに、
進歩的な発言をしながら、
言論封殺のようなことをする人々を見たこともあるような気がします。

それは、
「善」と「悪」とが曖昧だからでしょう。
曖昧であるが故に自分は「善」だと思いこんでしまえる。
責任が自分にあるとは想像もしない。

太宰はそういうことがなかった人間だとも言えるわけで、
吉本さんが「すごい」という理由もわかる気がするのです。

※画像は「かわいいフリー素材集 いらすとや」から

2015-06-18

人生に勝ち負けはないけれど

僕がバイブルとしている本のひとつです
webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」(略称:ほぼ日)のトップページにある「今日のダーリン」(2015年6月18日)で、
糸井重里さんが「勝ち負け」について書いています。

劇画家の上村一夫さん(1940~86年)が昔、
“ギターを小脇に抱えて、少し酔った口調で、
「恋愛は勝ち負けじゃありません」と言った”そうなんですね。

それで糸井さんは、
“この「勝ち負けじゃありません」という言葉は、
恋愛ばかりじゃなく、あらゆるものごとに
すべて言えるのではないかということだ”
と考えて、
“生きることなんて、ほんとに、勝ち負けじゃないものな”
と、おっしゃいます。

一時期「勝ち組」とか「負け組」とかいう言葉がよく使われましたけど、
最近あんまり聞かなくなりましたね。
経済誌の見出しなんかで時々眼にする程度かも。

いずれにせよ、
「生きることなんて、ほんとに、勝ち負けじゃない」ですね。

それはたぶん、
生きることがゲームじゃないからじゃないでしょうか。

ただ、ゲームじゃないけど、
ゲームに必要なルールはある。
これが面白いところですね。

ルールは法律であったり、
宗教上の教義であったり、
組織の規則であったり、
そして友達との約束だったりするわけですね。

勝敗がないのに、
なぜルールあるのか。

それは単に権力者の都合で作られるケースもありますけど、
基本的には、
他人に迷惑をかけたり集団の秩序を見だすとペナルティを科しますよ…ということで、無茶な行動を抑制して、多くの人間が快適に暮らせるようにしようという目的があるんでしょうね。

賭け事には勝敗がつきものですから、
「人生はギャンブルだ」ということを信条にされているヒトがいたとしたら、
その方の人生には勝ち負けがあるのかもしれないけれど、
どの時点で、
勝敗を決するのかがものすごく難しそうです。

自分の葬式に香典が○○円以上集まったら勝ち、
とか?
あっそのときにはもう死んでるから違うか…。

それはさておき、
人生に勝ち負けがないということは、
「引き分け」もないということなんでしょうか。

もしかしたら、
人生は「引き分け」しかないゲームなのかもしれないとも思いました。
だからその道程でのトラブルの合理的な解決策としてルールが必要なんでしょうか。

2015-06-17

至福のとき

カーティス・フラーの「Vol.3」。眠る前に聴く定番のひとつです
だいたい毎日、午後10時前、早ければ9時にはベッドに入ります。
午前5時には起きるという生活です。

これが僕に一番、合っている生活パターンのようで、
以前、一線にいたころ、
午前1時、2時まで仕事をするのが日常、
夏なんか夜が明け始めたころに帰宅して、
シャワーを浴びて、
ベッドでウトウトしたら、
朝駆けのために呼んでいたクルマが迎えに来るというのも珍しくはなかった時代が嘘のようです。

あのころ何を楽しみにして生きていたんだろ?とも思うわけですが、
それはそれで、
なかなかエキサイティングで楽しかったんです。

今は何が楽しみかというと、
夜、ベッドに入って、
カーティス・フラーとか、
J.J.ジョンソンとか、
ジャックティー・ガーデンとかJAZZトロンボーン奏者がリーダーとなったアルバムなんかを聴きながら、
本を読む、
これがものすごく幸せです。
雷蔵くん(ネコ、サバトラ、♂、2歳)や球太郎くん(ネコ、シロキジ、♂、1歳、愛称:Qちゃん)も寝室に入ってきて、
僕のお腹や太ももを敷物や枕の代わりにして、
ジーっとしていて、
これが幸福度を増幅してくれます。

なんで、
こんなのが幸せだと思うのか…。

北新地のクラブで、
きれいなおねーチャンをはべらして、
高い(「たっかい」と発音してください)酒のボトルを開けて、
遊んでいんるほうが幸せではないのか!

「否」と自信を持っては言えません。

北新地のクラブで、
きれいなおねーチャンをはべらして、
高い酒のボトルを開けて遊んだことがないからです。

ですから、
あんまり説得力も普遍性もないとは思うのだけど、
自分のベッドで、
音楽をバックに、
ネコたちと一緒に本を読むくらいのことが何で一番幸せなのか、
…という一点に集中して考察せざるを得ないわけです。
ご理解、ご了承ください。

これって難しく考えればいくらでも、
言葉を費やすことができると思います。
たとえば難民が増え続ける国際情勢とか、
医学的な側面からアプローチするとかね。

でも経験的に言えるのは、
この手のことはものすごく考えて、
実証的に証明していくと、
答えが整合性を持つのに比例して、
実感と離れていくというのはありませんか。

いくら引力とか重力の説明をされても、
地球がまるいことが感覚的にはわかりにくいように。

もちろん学問的に考えることは大切です。
否定はしませんし、
僕は学問的アプローチを尊重します。

それはさておき、
僕の幸福の理由です。

なぜ、
ベッドで、
音楽をバックに、
ネコたちと一緒に本を読むくらいのことが何で一番幸せなのか…。

まず、
不安がないからでしょうね。
それから昼間にあった嫌ことも、
いいことも忘れているから、
怒りも、
高揚感もない。

自分の意識と身体が現在とぴったり重なっていて、
明日、突き詰めれば次の瞬間どうなるのか別にして、
今は問題なし。
さらには自分がどこの誰でというのも意識していなくて、
ただ、在るだけ。

明日もこうだと良いなということすら思わない…。

つまり何も考えていないから幸せみたい。

それがいいことなのかどうかはよくわからないけれど、
こんなコンディションのときには、
不意の出来事があっても、
冷静に対処できるということは経験済みです。

ただ、
激しく腹が立つことがあった、とか、
今、身の上に起こっている、とか、
明日、ものすごく嫌なことがある場合は、
そんなわけにいかないことがあるのも事実です。
どんなときでも、
どんな情況、
どんな場所でも、
眠る前は幸せでいたいもので、
もっというと、
幸せだとかも意識しないくらいになれるはずと信じています。

2015-06-16

「住み良い都市」は「良い都市」か

日本経済新聞(電子版)=2015年6月13日=によると、

“英総合月刊誌「モノクル」は2015年の「世界の住み良い都市ランキング」で東京が1位になったと発表した。昨年の2位から順位を上げた。巨大都市にもかかわらず平和で静かな環境を実現している点が高く評価された。福岡が12位、京都が14位と日本の他の都市も上位に入った”。

海外には観光や仕事でしか行ったことがないので、
外国のことはよくわかりません。
でも、
東京が1位なのもよくわかりません。
円安の影響はあるでしょうけど…。

僕は1年足らずの短い期間でしたけど、
東京には住みました。
その他でいうと、
和歌山で生まれて高校卒業まで暮らし、
そのあとは大学時代は京都で4年、
就職して初任地の神戸で4年、
そのあとは東京勤務時代を除いて大阪です。

このなかで一番住みにくかったのが東京でした。

比較の問題なので、
東京がダメというんじゃないです。

部屋を借りたのは谷中(やなか)で、
東京メトロ千代田線を使えば最寄りの千駄木駅から大手町までは10分ほど。
「谷根千(やねせん)」といわれる昔の風情を残した地域です。
「谷根千」というのは、寺町の谷中、下町の根津、武家町の千駄木の総称で、台東区と文京区と荒川区が重なっています。

商店街(谷中ぎんざ)もあって買い物も便利だし、
部屋から、
千駄木駅まで徒歩5分弱、
JR日暮里駅にも10分かからない。
近所には歩いて3分から10分圏内に銭湯が3軒もあったし、
快適ではありました。

でも先にも書いたように比較の問題にすると、
関西より住みやすいとは感じませんでした。

具体的にいうと、
気軽に京都に行けないとか、
「大衆的」に見える飲み屋の勘定が関西に比べて高いとか、
昼ごはんを食べに行くと定食が、
ご飯とメーンのお皿と味噌汁だけというところがけっこうあって、
値段も関西より100円から300円高い印象でした。
それから、
全国的にみると、
地方の県の県庁所在地で一番乗降客が多い駅よりも、
賑やかな駅がいっぱいあって、
人が多い。
アメ横なんて、いつも大晦日か!って思いました。

ケチをつけるとすればそれくらいで、
情報は集めやすいし、
展覧会や文化イベントは多いし、
見るべき施設も多く、
さすが日本の「首都」って感じです。
何よりも、
あれだけヒトが生活しているのに、
大阪に比べると不法駐輪がものすごく少ない(…これは感心しました)。

そういう意味で、
東京が優れた都市だというのは認めざるを得ません。

ただ、僕には暮らしにくかった。
俗に言う「水が合わない」という感覚ですね。

東京勤務期間中は、
関西に帰ってくると、
心底ホッとしました。

東京の人混みに比べると、
大阪の地下街なんて人通りが少ないくらいに感じて、
それまで少々鬱陶しいと感じていた混雑も苦にならなくなりましたしね。
正直に言うと、
大阪の方が人が少ないことが口惜しいくらいでした。

で、そんな東京で生活していたある日、
新幹線でJR新大阪駅に着いてから、
大阪駅まで、ひと駅在来線で乗り継いで梅田の地下街に着いて気づいたことがありました。
電車のなかでも、
なんだか東京と様子が違うなぁとは感じていたんですが、
その理由がわかったんです。
東京より人の数は少ないのに、
大阪のほうがやかましい。
ひとりひとりの声が大きいうえに、
会話している割合が多いからでしょう。

もしかしたら、
東京に「水が合わない」のはこんな雰囲気に慣れてしまったせいかも、と思いました。

反対にいうと、
首都圏で長く暮らした方は、
大阪のこんな空気には「水が合わない」かもしれませんね。

ただ東京が住み良い都市で世界一になったという記事に話題を戻すと、
僕はそれが必ずしもいいことだとは思えません。

暮らしやすさにつながる日本人の礼儀正しさや大人しさを利用しようとする人間もいるからです。
僕は実際に、
ある外国人から「日本人は自分の母国の人間に比べたらチョロいと考えている知り合いは少なくない。だから日本の方が商売がしやすいみたい」と聞いたことがあります。
さらに「ただ大阪だけはちょっと事情が違うけど…」とも。

この言葉が耳に残っているので、
都市はワイルドな部分が残っているほうが良いと考えています。

「巨大都市にもかかわらず平和で静かな環境を実現している点が高く評価された」というのは、
眼に見えにくいところで、
外部の人間によって深い闇のような空間が作られやすいということだからです。

2015-06-15

「願いはかなう」のが自然な理由

気功の学校
僕が好きではない言葉のひとつに、
「想いはかなう」…があります。
まず「想」を充てるのも何だか不自然な印象があって、
「思」でいいんじゃないのと“思”うわけです。

『字通』にも「想」は「…その形容を思い浮かべることをいう。その人を慕う意がある」とあり、
なにかカタチあるものを思い浮かべたり、
好きなヒトへの恋愛成就を願うのなら、
「想」でも気になりませんけど、
単に「夢はかなう」みたいな意味でつかってほしくないですね。

なんだか頑固ジジイのようで、
少々自己嫌悪もしてしまうけど、
これは譲れない。

そもそも「夢」にしたって、
「I Have a Dream(私には夢がある)」と演説で語ったキング牧師(1929~68年)の人生をかけた壮大な思いにこそふさわしい。

タモリは「夢があるようじゃ人間終わりだね」とテレビ番組で語ったそうだけど、
たぶん好きでやり続ければかなうような「夢」を否定しているんだと思う。

「想いはかなう」に話を戻すと、
だいたい、この言葉を口にするヒトって、
ちょっと力(りき)んでるんですよ。

気合いで思えば願いはかなうみたいな感じじゃないですか。
「想」うことを何よりも優先させて、
何も行動してないんじゃないか、というような方もいます。
力んで「想」えば、
何か結果が出ると信じているかのような…。
たぶんオナラくらいしか出ないと思うけど。

力むといえば、
西川きよし師匠が頭に浮かびますけど、
あれは作られた芸風で、
まともにずっと肩に力を入れてやってたら、
あんなに売れるわけがない。

カラダから余計な力を抜いて、
自然な状態になったときに、
人間は能力を最大限に発揮できると思うからです。

とはいえ、
実は僕も肩に力が入いるタイプです。
脱力しようと思えば思うほど力が入ってしまうし、
カラダから余計な力を抜くのが難しいのは痛感しています。

なんとか自然体になりたいと思って、
最近興味を持っているのが「気」です。
東洋医学なんかでいう「気」。
「気功」の「気」ですね。

それでこの間、読んだのが『気功の学校』(天野泰司著/ちくま新書)です。

このなかには、
「『願いはかなう』のが自然です」と書かれています。

「えっ!」そうなのという感じで先を読むと、
「ごく身近な例でいうと、たとえば、お茶が飲みたいと思う。お湯を沸かす、急須に茶葉を入れてお湯を注ぐ、しばらく待つ、お茶を湯のみに注ぐ。そしてお茶を飲む、というように願いをかなえます」とありまして、
何だかさっきの「えっ!」が「えっ?」になった感じもします。

でも、
考えてみたら、
願いというのは、
お湯を沸かし方や、お茶の入れ方を知っていて、
ちゃんと実践すれば、
水が高いところから低いところに流れるように、
かなうものなのかもしれません。

湯のみだけ用意して、
いくらお茶のことを「想」って待っていても、
お茶が飲めないのは当然です。

自然の法則に従い、
カラダから余計な力を抜いて、
正しい方法を積み重ねながら得たい結果に向っていけば、
願いはかなうわけですね。

何かがうまくいかないのは、
不自然なことをしているのが原因なのかもしれません。