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2015-07-30

グレイトフル・デッドに学べるのはビジネスだけじゃない

米国のロックバンド「グレイトフル・デッド (Grateful Dead)」についての説明をWikipediaから引用すると…。

「1960年代のヒッピー文化、サイケデリック文化を代表するアーティスト」
「デッドヘッズと呼ばれる熱狂的な追っかけファンが多く、ヒットチャートとはほとんど無縁の存在ながら、毎年のようにスタジアム・ツアーを行い、常にアメリカ国内のコンサートの年間収益では一、二を争う存在だった」
「著名人の『デッドヘッズ』としては、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントン、元副大統領アル・ゴアと夫人ティッパー・ゴア、スティーブ・ジョブズ…」
「1995年8月9日、リーダーのガルシアの死去によってバンドは活動停止を宣言、解散した。その後メンバーが再集結してアザー・ワンズを結成、現
在は『ザ・デッド』の名でライブ活動を行っている」

…となり、これでだいたいイメージはつかんでいただけたでしょうか。

この伝説とも言えるバンドの運営形態をビジネスのヒントにしようという本がデイヴィッド・ミーアマン・スコットと、ブライアン・ハリガンの共著『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(渡辺由佳里訳/日経BP社)です。

この邦訳版は2011年12月にコピーライターでwebサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰している糸井重里さんの監修で出版されました。

ふつうミュージシャンはリリースしたアルバムを売るためにライブ・ツアーなどを行うのですが、
グレイトフル・デッドはファンにライブの録音を許可するだけでなく、
良い音質で録音してもらうためのスペースまで設けていました。
そうすることで、
自分たちの音楽がコンディションのいい音源で広がって、
ライブの宣伝になるというわけです。

インターネットの普及が進んだ現代では、
珍しいとはいえない手法ではあるのですが、
グレイトフル・デッドはインターネットどころか、
「ウォークマン」すら発売される、はるか前から実行していたんです。

2015-06-19

「桜桃忌」に考える「善」と「悪」


きょう6月19日は「桜桃忌」です。
太宰治の忌日です。
正確には1948(昭和23)年6月13日に玉川上水で心中したんですけど、
遺体が見つかったのが6日後の19日で、
その日は太宰の誕生日でもあるので、
この新戯作派・無頼派作家を偲ぶ日になったわけです。

知っているヒトには当たり前の話ですね。
中学か高校の国語で習った記憶があるし…。
でも、
知らなかった方には「あっそうだったんだ」という典型的な例かもしれません。

きのうも「ほぼ日刊イトイ新聞」を引用させてもらったんですけど、
きょうも「ほぼ日」で公開されたコンテンツからとなります。

…というのも、
「桜桃忌」に合わせて、
きょう更新された「吉本隆明の183講演」が「太宰治特集」なんです。

だから仕方がないんです(…キッパリ!)。

ちなみに「吉本隆明の183講演」は、
吉本さんの183回の講演・計21746分の音声をアーカイブして無料で公開しているプロジェクトをさまざまな趣向でコンテンツとして提供する連載企画のようなものです。

「ほぼ日」によると、
糸井重里さんは昔、
吉本さんに、
「好き嫌いという意味で、
 吉本さんが個人的に好きな作家は、
 誰ですか?」と質問したそうです。

吉本さんは、間髪入れずに、
「太宰治。宮沢賢治。
 あとは、作家じゃないですけど、
 親鸞です。好きな人といえばその3人です」
…とおっしゃったそうで、
きょうは183の講演のなかに3つあった太宰をテーマとした講演に焦点を当てています。 

その中の1993年7月28日、東京・有楽町での講演で、
実際に太宰に会ったことのある吉本さんは、

“太宰治という人は、僕がお会いしたときには、
まことに見事に、常識でいう社会的な善と悪が、
ちゃんとひっくり返っている人になっていました。
一般的に人がいいことだと思っていることは
ぜんぶ悪いことで、
悪いことだと思っていることは
ぜんぶいいことだというふうに、
揺るぎない自信で完全にひっくり返っていました。
学生時代でしたが、ああ、
すごい人がいるんだなと思ったのを覚えています”

…と語っていて、
この音声のアーカイブとリンクした「ほぼ日」のページには、
その部分が文字になって抜粋されています。

僕は銀塩フィルムのネガとポジを連想しました。

「社会的な善と悪が、ちゃんとひっくり返っている」ということは、
正確に善と悪を把握していないと再現できるものではありません。

そういう意味では太宰は「悪」を再現する木版画の版木のように、
自分のなかに「善」を刻んでいたともいえます。

だから「揺るぎない自信で完全にひっくり返って」いたような気がします。

それは僕も本当にすごいことだと思います。

人間というのは、
たとえばドラマを観たり、
小説を読んだりするときに、
主人公や作者の視線で「善」と「悪」を判断して、
感情移入します。

ところが、
そんなドラマや小説と似た状況が自分の日常で起こった場合、
「善」「悪」をまったく逆転させた行動をすることが珍しくないのでは…。

ものすごく単純な例で言うと、
テレビドラマで主人公が「非国民」とか「売国奴」だとか批難されると同情するのに、 
実は似たような場面では批難する側と同じようなことを無意識にしてしまっているみたいな…。

自分の国が戦争をしているのだから、
敵国を憎み、
自国の戦果を喜ぶという、
ある意味、当たり前の感情への想像力が遠近感がねじれてしまっていて気づかない。

別の例を上げれば、
戦時中の言論統制を批判するのに、
進歩的な発言をしながら、
言論封殺のようなことをする人々を見たこともあるような気がします。

それは、
「善」と「悪」とが曖昧だからでしょう。
曖昧であるが故に自分は「善」だと思いこんでしまえる。
責任が自分にあるとは想像もしない。

太宰はそういうことがなかった人間だとも言えるわけで、
吉本さんが「すごい」という理由もわかる気がするのです。

※画像は「かわいいフリー素材集 いらすとや」から

2015-06-18

人生に勝ち負けはないけれど

僕がバイブルとしている本のひとつです
webサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」(略称:ほぼ日)のトップページにある「今日のダーリン」(2015年6月18日)で、
糸井重里さんが「勝ち負け」について書いています。

劇画家の上村一夫さん(1940~86年)が昔、
“ギターを小脇に抱えて、少し酔った口調で、
「恋愛は勝ち負けじゃありません」と言った”そうなんですね。

それで糸井さんは、
“この「勝ち負けじゃありません」という言葉は、
恋愛ばかりじゃなく、あらゆるものごとに
すべて言えるのではないかということだ”
と考えて、
“生きることなんて、ほんとに、勝ち負けじゃないものな”
と、おっしゃいます。

一時期「勝ち組」とか「負け組」とかいう言葉がよく使われましたけど、
最近あんまり聞かなくなりましたね。
経済誌の見出しなんかで時々眼にする程度かも。

いずれにせよ、
「生きることなんて、ほんとに、勝ち負けじゃない」ですね。

それはたぶん、
生きることがゲームじゃないからじゃないでしょうか。

ただ、ゲームじゃないけど、
ゲームに必要なルールはある。
これが面白いところですね。

ルールは法律であったり、
宗教上の教義であったり、
組織の規則であったり、
そして友達との約束だったりするわけですね。

勝敗がないのに、
なぜルールあるのか。

それは単に権力者の都合で作られるケースもありますけど、
基本的には、
他人に迷惑をかけたり集団の秩序を見だすとペナルティを科しますよ…ということで、無茶な行動を抑制して、多くの人間が快適に暮らせるようにしようという目的があるんでしょうね。

賭け事には勝敗がつきものですから、
「人生はギャンブルだ」ということを信条にされているヒトがいたとしたら、
その方の人生には勝ち負けがあるのかもしれないけれど、
どの時点で、
勝敗を決するのかがものすごく難しそうです。

自分の葬式に香典が○○円以上集まったら勝ち、
とか?
あっそのときにはもう死んでるから違うか…。

それはさておき、
人生に勝ち負けがないということは、
「引き分け」もないということなんでしょうか。

もしかしたら、
人生は「引き分け」しかないゲームなのかもしれないとも思いました。
だからその道程でのトラブルの合理的な解決策としてルールが必要なんでしょうか。