本の安売りをやってまして、
そこでDVDも置いてました。
DVD「幻の名人落語 柳家小さん(1)」っていうのがあったので、
買いました。
演題は「猫久」と「粗忽の使者」。
小さん師と、立川談志師の対談や、
談志師の解説も収録されています。
その中で談志師は、
落語の「笑わせる」というのは「手段」であって、
「目的」は人間を語ること…人情…人間の業(ごう)を語ることだとおっしゃってます。
落語っていうのは、
芸術なんだな、と思いました。
もちろん談志師の場合、その手段のレベルが高くて、
ものすごく笑わせてくださったわけですけどね。
しかし、です。
その「手段」論は江戸落語だけのものかもしれません。
もしかしたら談志師だけの思いかもしれません。
でも談志師にはお弟子さんもいらっしゃいますし、
ファンも多いので、
その「手段」と「目的」を支持される方は少なくないのだと思います。
一方、上方落語はどうでしょう。
噺家が「笑い」は「手段」で、
「目的」は…というと、
納得する客は少ないような気がしますが、いかがでしょう。
「わかった。それはそれで勝手にやってくれ、こっちは笑えたらええねん」という声が聞こえそうです。
僕がそうなんですけど、
寄席には「笑う」ことを目的にして足を運びます。
確かに落語は「人間の業」を肯定して、
「世の中、いろんな生き方、考え方があるよなぁ」と実感させてくれるところがあります。
でも僕としては、
噺家さんには「笑わせる」ことを目的にしていただきたい。
この「手段」と「目的」も談志師独特の意表をつくような「論理」なのかもしれませんが、
江戸と上方の落語を比べると、
確かに江戸は人情の機微の表現を重視しているような気がします。
それに対して、
上方は笑わせてナンボみたいなところがあるのは否めないでしょう。
話芸の良否は「笑わせる」力量で判断するというところがあります。
それは「笑わせる」ことの難しさがあるからでしょう。
つまり、そんな困難なハードルを越えて、
笑わせる噺家が人気を集めて「名人」とも言われます。
はっきり言って、
人情だとか、人間の業なんていうのは二の次と言った印象すらあります。
それが良いことなのか悪いことなのかはわからないのですけど、
僕は上方落語の方が好きです。
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