1985(昭和60)年8月15日の具体的な記憶はないのだけれど、
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)にいたことは間違いない。
当時、神戸支局の“駆け出し”で、高校野球の取材をしていた。
ちょうど30年前になる。
この年の3月に大学を卒業し、
4月から新聞社に入社した。
慌ただしい年だったと思う。
社会人になってからを振り返ると、
まず4月1日に日本電信電話公社(電電公社)と、日本専売公社が民営化されて、それぞれ「日本電信電話株式会社(NTT)」と「日本たばこ産業株式会社(JT)」になった。
研修を終えて6月に神戸に赴任。
同8日、支局で内勤をしながら神戸淡路鳴門自動車道の大鳴門橋の開通式典の生中継のテレビ放送を見ていたら、
中継終了直前に小型飛行機が海に突き刺さるように墜落した。
マスメディアの飛行機なのかテロなのか…支局内は騒然となったが、この機を所有する主が個人的に曲技飛行を披露しようとしていての事故だと判明した。
当時はまだ今のような携帯電話はなくて、
現場とは無線機や公衆電話を利用してのやりとりで、
原稿は紙に手書き。
ファクシミリが最新鋭の機械だった。
入社式のときに見学した大阪本社の屋上には、
かつて現場から原稿を送るための伝書鳩を飼っていた小屋の跡が残っていた。
原稿を入力するパンチャーさんがいて、
支局には「漢テレ室」という部屋があり、
パンチャーさんが原稿をいくつものキーボードがついた漢字テレタイプで入力していた。
写真は暗室でフィルムを現像し印画紙にプリントして専用線経由で伝送器からアナログ信号にして送信していた。もちろんモノクロである。
支局内はタバコの煙がもうもうとしていた。
同じ月の18日 には豊田商事会長が多くの取材陣が詰めかけていた大阪市内のマンション内で刺殺された。
新聞・放送各社は「見殺し」にしたなどと批判された。
8月7日、「グリコ・森永事件」一連の「ハウス食品脅迫事件」で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が本部長公舎の庭で焼身自殺を遂げた。
同12日、「グリコ・森永事件犯」から「終結宣言」が送付され、犯人の動きは止まった。
そして、その日夜、日本航空123便墜落事故が発生。同機にはハウス食品工業社長も脅迫事件の終息を同社創業者・前社長の墓前に報告するために搭乗していた。
神戸市内にも多くの搭乗者の自宅があり、
甲子園から支局にもどっていた僕は搭乗者名簿に記載されていた方々のお宅を訪問。事故の内容が把握できないなかで取材や顔写真の提供依頼などをすすめた。
ほとんど寝てなかったはずだ。
翌日、甲子園球場にいるときに、
どのような方法でかは忘れたのだけれど、
日航機事故で生存者がいて救出されたというニュースが流れ、
球場の観客席に拍手が広がっていった。
その日も支局に戻ってから、
搭乗者名簿に名前が記載されていた方々の自宅や関係先を取材した。
この年、甲子園での戦いを制したのは清原和博・桑田真澄の「KKコンビ」を擁した大阪・PL学園だった。
当時は山口組と一和会の抗争の最中だったが、
8月にユニバーシアード大会が予定されていたため会期中を中心とした2カ月間の「休戦」が合意された。
このときのユニバの女子マラソンで、僕より1歳年上の深尾真美(大阪体育大卒)が優勝するシーンを目の前で見た。
10月17日、兵庫県西宮市の知的障害者施設で園児が死亡した「甲山事件」で、殺人罪に問われた元保母に神戸地裁で無罪判決が言い渡された。
僕は法廷内で言い渡しの瞬間を確認し、廷内雑感取材と判決要旨を支局に持ち帰るのが与えられた役割だった。その様子を伝えたテレビニュースで法廷から出てくる僕の姿が映っていて、甲山事件が振り返られるたびに、自分の姿を見ることになった。
その後(1990年3月)、大阪・社会部の司法記者として自分が中心になって控訴審を取材するとは想像もしていなかった。大阪高裁は一審の無罪を破棄し地裁に審理の差し戻しを命じた。(このときには僕には「ドラマ」があった。死ぬまで本当のことは誰にも言わないかもしれない…という自分が少し卑しい気もするけれど)
また1985年に話を戻すと、
開幕前の予想を覆し、10月16日に21年ぶりのセ・リーグ優勝を果たしていた阪神タイガースが11月2日、日本シリーズで、西武ライオンズを破って日本一となった。
阪神甲子園球場のある西宮市と同じ兵庫県の県庁所在地の神戸でも、当然ながらお祭り騒ぎで、
僕は優勝の瞬間の街の声を聞くために三宮にいたと思う。
…淡々と書けば、
それほど慌ただしくもないような気もしてきた。
当時はまだまだ週休1日が普通で、
新人記者の僕は3週間に1日が公休で代休はなし、
身体を壊さないように自分で適当に休息しろと言われていて、
連続9週間休みなしってことも。
でも他社も「日々勉強の新人に休みはない」というのが当たり前の空気だったので、あまり疑問にも思わなった。
しんどかったけど、楽しかったのだ…楽しいというのでもないかもしれない。
思い起こしてみれば、日々新鮮で、きょうはきのうより仕事をおぼえて早く一人前の記者になりたいという気持ちでいっぱいだった。
そのときが戦後40年で、それから30年経ったのが今年である。
10年後は戦後80年なので、
ちょうど1985年は前後40年の戦後の中間点となる。
そのときの僕は1985年のことをどのように見つめるのだろうか。
戦後70年からの今後10年の変化が、
影響するのか、しないのか…。
それを検証するひとつの参考資料として、
この文章を書いてみた。
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