2015-06-29

「才能」の「代用品」

以前、『ウンベルト・サバ詩集』(みすず書房)から
「仕事」という作品を引用して、
自分で生きるために宝をさがす人のように深く掘らないと、ということを書いたことがあります。

意図もニュアンスもちょっと違いますけど、
村上春樹も「走る小説家」として自分自身について綴った本『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)で、
「掘る」ことに言及しています。

小説家にとって一番重要な資質は「才能」で、
次に「集中力」、続いて「持続力」だと書いている文章のなかで、
「才能にそれほど恵まれていない」作家たちは「集中力」を養い「持続力」を増進させて「才能」の「代用品」として使うことを余儀なくされる…と述べています。

そして、そこで培われた「筋力」で、
「スコップを使って、汗水を流しながらせっせと足元に穴を掘っているうちに」「自らの中に隠されていた本物の才能に巡り合うこともある」と書いているのです。
その「本物の才能」を「秘密の水脈」とも形容しています。

2015-06-28

産まれたことに気づいていますか?

「世界中から心を揺さぶる“すごい!”動画や画像を集めて独自の視点でお届けする」というキュレーションメディア「FunDo(ファンドゥ)」のなかに「彼は自分が産まれたことに気づいていないそうです」という記事がありました。

「爬虫類や鳥類は自分で卵の殻を割って産まれてきます。しかし、人間の帝王切開と同じで、外から産まれるのを助けてあげる必要がある場合もあります。このカメレオンの赤ちゃんはその例で、自分で殻を割っていないので産まれたことに気付かなかった様子です」…とのことで、
ほとんどタマゴのかたちのカメレオンの赤ちゃんの写真が掲載されています。

「そうかぁ、
この赤ちゃんは産まれたことに気づいていないのかぁ」と写真を見つめたわけですが、、
はて…僕は一体いつ産まれたことに気づいたんだろう…と考えてしまいました。

もしかしたら、
まだ気づいていないのかもと、思うと、
気づいていなような気もしてしてきました。

2015-06-27

「理想」は危ない

タモリの「夢があるようじゃ人間終わりだね」
…という言葉に我が意を得たりと思ってしまう人間です、僕は…。

タモリが言ったら、それなりに含蓄があるでしょうけど、
僕が言っても、湿った爆竹ほどのインパクトも影響もないのは理解しています。

ごめんなさい、すみません。

「夢」というのは現実には叶わないので「夢」であって、
「夢の実現に向けて頑張っています」という声を聞くと、
(心の中で小さく)
「夢なら叶わないし、かなうなら夢じゃなくて単なる目標やん」と思ってしまいます。

そういう意味で僕も「夢」なんかありません。

小学校のころから作文で「わたしの夢」みたいな題が出されても、
「これは夢というより、妄想みたいなもんで」と書いて、
「この部分はないほうがいいですね」と先生に注意されていましたし、
面倒なので「夢は世界平和」って書いたこともあるほどです。

考えてみれば嫌なガキでした。

僕が教師なら絶対に、こんな小学生を教えたくありません。

ただ男なんで、やはりアホです。
小学5年くらいまで、
ショッカーが僕を捕まえて、
仮面ライダーに改造してくれたらいいのに、
と真面目に考えていました。

2015-06-26

嫌よ嫌よも…

いくらユニークなアイデアでも、
簡単にマネができることを、
一番最初にやると、
イニシャルコストが二番煎じグループより大きくなって、
それよりも少ないコストでスタートした後発組(=二番煎じグループ)に負けてしまう…という説があります。

ビジネスの上の話で、
定説なのかどうかは知らないのですが、
どこかで聞いたことなので、
話した方の、その場の思い付きだったのかもしれませんけど、何となく納得できます。

簡単にマネができるというのは、
アイデアそのものが特許的に独占できないケースなんでしょうけどね。

実際、PCのGUIはもともとアップルのアイデアではないし、
ウィンドウズ95が出たときも、
Macファンからは「どこが新しいねん」と突っ込む声が聞こえてきました。

ただ、この流れが簡単にマネができることに当てはまるかどうかがわかりませんし、
簡単にマネをできるのに、
されないケースもあります。

それはビジネスから視線をずらせば、枚挙にいとまがないほど。

たとえば、
毎朝、笑顔で元気にあいさつするとか…。

これくらい簡単なことはなさそうです。
もちろん設備投資が必要なわけじゃないし、
道具も特別の技術を身につけていなくても問題ありません。

食べ過ぎないとか、
飲みすぎないとか、
無駄遣いをしないとか…。

こういうことも簡単です。

でも難しい。

状況により難しいことがあるかもしれませんが、
満員電車で、
お年寄りに席を譲るなんていうのも、
スキルが必要だとか、
検定があるということは聞いたことがありません。

簡単にできて、
良いことなのにやっていないことって多そうです。

逆に簡単にはできないし、
なぜか、多くのヒトがやっていることってないですかね。

良し悪しというフィルターを抜きにすれば、
スポーツや楽器の演奏はそうですね。
道具も技術も鍛錬も必要なのに挑みます。

それは楽しいとか、
勝ちたいなどという動機や報酬のようなものがあるからでしょう。

つまり「快楽」が行動につながっいるようです。

逆に言えば、
「不快」なことはしたくない。

そして、されたくはない。

自分が嫌なことは他人にするな、という、ものすごく簡単な言葉にまとめられます。

ところが、
自分がやられたら嫌なことも、
自分が他人にやるときは、
同じ行動だと認識できなければ、
「自分が嫌なことは他人にするな」という戒めも役に立ちません。

やられたら嫌だというのが明白なことでも、
他人にやってしまうヒトもいます。

これは、
(1)自分は、その嫌なことをされる心配がないからやってしまう
(2)自分されて嫌だったので仕返しをしている
(3)快感だからやっている
…というケースが考えられます。
また(4)嫌がっているのではなく喜んでいると誤解してやっている…のもあるでしょう。

嫌なことをされている場合、
自分がみじめにならないように、
一見、喜んでいるように装うヒトもいるような気がします。

また嫌なことも、色々あります。
スーパーのレジで並ぶのが嫌なので、
割り込んだら、注意された。
その叱責が嫌だったのでキレたという「嫌」もあるわけで…。

こうなると、
自分が嫌なことは他人にしないという戒めは、
単なる無関心になって、
無秩序にもつながってきます。

また、難しいことに、
「嫌よ嫌よも好きのうち」なんていう男女の情の複雑な機微もあって、
なかなか「嫌」ひとつでも一筋縄ではいきません。

つまり、
結局、世の中から「嫌」なことはなくならない。
どうも、完全になくなっても、それはまた難儀のようで…。

「嫌」なことに、どのように対処して、
取り返しのつかないように工夫する、
それしかないんでしょうね。

そういう意味で「嫌煙権」はかなり対処が進んだ例なのでしょうけど、
「嫌煙」という言葉が残るかぎり、
タバコにまつわる「嫌」は存在するということでしょうね。
タバコがこの世から消滅すれば別ですけど、
それが健全だとも思えません。

2015-06-25

道頓堀・角座で普通ではない状況が…

2015年6月25日午後 大阪・道頓堀

きょう(2015年6月25日)は代休でした。

梅雨だとは思えないような爽やかな、お天気で。

洗濯を済ませて、
谷町で鍼を打っていただいてから、
日曜日(21日)に食べたばかりだというのに、
また、クリスタ長堀の「インデアンカレー」で、
お昼ごはんをいただきました。

それからテクテクと心斎橋商店街を歩き、
戎橋から道頓堀へ出て、
「角座」の「日中(ひなか)はなしの会」を聞かせていただきました。

開演は午後1時です。

座席は126だそうで、
70歳以上とみられる方を中心に、
8割くらいの入りだったと思います。

笑福亭飛梅さんの開口一番(動物園)のあと、
笑福亭呂好さんが「狸(たぬ)さい」を演じられまして、
もともと、
お年寄りの私語が多かったんですけど、
どうもザワザワしている。

次の桂咲之輔さんが登場してマクラに入るものの…。
客席が普通ではない状況で…という話になりました。
ここで、
最前列に座っていた僕が咲之輔さんの目線の先を追うと、
救急隊員さんが劇場に入ってくるではありませんか。
その様子を咲之輔さんが説明するように“実況”されまして、
客席で80歳くらいの男性が体調を崩したらしく、
救急車が呼ばれたようです。

その男性は、意識もあって、その場ではそれほどの重篤でもなかったようで、
救急隊員さんに付き添われて客席の外へ出ていかれました。

気にかかる…。

そんな空気が会場に充満してまして、
咲之輔さんは、
お客さんに、お願いし、
舞台への登場から仕切り直されました。

不思議なもんですね。

アクシデントというか事件を共有した効果なのか、
客席の一体感が高まりまして、
それまで、おばちゃんの私語や、
数人のグループでタコ焼きを分けあって食べていた混沌とした空気が変わったんです。

これがナマの劇場の醍醐味ですね。

寄席は「一期一会」だという噺家さんは多いですけど、
それを実地に学んだ気がします。

高座に上がる噺家さんはマクラで、
寄席は客席と舞台の共同作業だと強調されることが多いです。

その日のお天気、世情、季節、観客の構成…。
同じ組み合わせは奇跡でもない限りありえないわけで、
「一期一会」はアタマではわかっていたんです。

でも、きょうみたいなアクシデントがあると、
腑に落ちる深さが違いますね。

単純に、
ライブで同じ空間にいるのがよくて、
生中継や録画のほうが劣るというわけじゃないんです。

ここが説明しにくいんですけど、
ライブで会場で観るのほうが価値が高いといいたいわけじゃないんです。
生中継や録画のほうが、
面白く見られる場合もあるでしょからね。

ただね、
きょうみたいなアクシデントの空気は会場では独特のものがあります。
なぜなら、
同じ空間を共有している人々があらゆるかたちで当事者意識を持ちやすいからです。

でもね、
メディアを通じた生中継や録画、
さらにはものすごく古い記録でも、
本当は当事者意識を持つことが必要なものが多いんではないのかな、と、あらためて思いました。

メディアを仲介すると、
当事者意識が薄まるのは、
メディアを担っている人々が他人事だと思っている度合いにもよるかもしれません。

ただ、
難しいのは、
事柄によっては他人事だと突き放さなければ、本質が見えない事象もあることです。

つまり思い入れし過ぎたり、
自分の考えを正当化するために当事者になりすぎると、
誇張や歪曲が生じる可能性があるということです。

ここで「だからマスゴミは…」といってもどうしょうもありません。

「事象」と自分との関係性を的確に把握できる能力の涵養が大切だということです。

ちょっと視点をずらして言い換えれば、
「いい人」の言うことが正しいとは限らないということです。

SNSでもそうなんですけど、
人気者や自分が好きな人間の主張が自分にとって「いいね!」とは限らないという単純な話です。