2015-04-19

畏れる力

「生きる名人」をめざすにあたって、
さて、
まず、どんなことが大切なんだろうと考えました。

そこで、
ひとつ思いついたのが「畏れる力」を身につけるということです。
なんだか「〇〇の力」っていうと、
ベストセラー狙いの新書のタイトルみたいで、
安いぽいですね。

僕が考えるくらいだから、
本当に安っぽいのかもしれないけれど…。

何がいいたいのかというと…。

やはり人間には加減、塩梅(按配)が必要じゃないかなということです。

狩猟民族と農耕民族っていうのがありますね。
遊牧民や、狩猟農耕折衷型もあるわけですが、
それはさておき、
「タネまきなしに収穫なし」
これは農耕の基本です。
一方、狩猟はどうなんでしょうか。
捕獲の道具を作ったり、
技術や知識を身につけたりといったコストは必要ですけど、
これをタネまきと同じレベルの準備とみていいのか。
(ちなみに焼き畑農業はここでは考えないことにします)
山や海、野で生きている生き物を捕獲して食べる。
食料がタダで手に入るわけですね。
でも労力は使っている。
その結果としての報酬となるわけですが、
それが大規模になって、
経済とか「国益」とかいわれるものが優先になると、
自分たちで消費する以上の分が必要になってきて、
加減や塩梅(按配)とかいうものがなくなってしまう可能性がありますね。

もちろん狩猟だけに限らず、
金融とか、
エネルギーとか、
…最初、農耕と狩猟を分けながら、
矛盾するようですが、

農業だって例外じゃない。
狩猟の経済論理が優先する農耕だってあるような気がしますから、

いろんなビジネスがその危険性をはらんでいるわけで…。

つまり、
地球の天然自然の力のバランスを壊す危険性ですね。

もともと、
日本人には、
人間っていうのは、

自然のバランスを乱す生き物なので、
なるべく、うまく折り合いをつけて無茶なことはしないで、
おこう。
そうじゃないと神様やなんかのバチが当たるんじゃないか、
という思いが意識的にも無意識的にもあったような気がします。

他の国や地域のことはよく知らないので、
他所でもそうだったのかもしれない。

それはさておき、
だから、

天然自然のバランスを壊しすぎて、
海や山の神さまの怒りにふれないようにという遠慮というか、
自制心があったと思うんです。

神事なんかをみても、
自分たちが得て血肉や収入のもとにした収穫物や、
道具への「供養」っていうのが今も残っています。


自分の都合ばかりを優先して、
強欲になると、
結局、まわりまわって災難が降りかかるので、
自制するためにも、
そういう儀式があって、
もしかしたら、
それは何かの経験や教訓にもとづいているかもしれません。

なにか世の中で不自然で行き過ぎた塩梅の悪いことがあると、
それがいくら合理的で理にかなっていても、
無意識みたいなもんが、
「なんか、おかしい」って警告してくれるような気もします。

その警告を聞けるのが「畏れる力」だって思うんです。

もちろん、
間違った旧態依然の悪弊の影響で、
「不自然だ」と感じてしまうこともあるでしょう。
そんなことと、
正しい警告を判別することも含めて、
「畏れる力」。

とにかく、
将来、禍根を残すような流れに棹をさして、
いけない方向への推進力になるようなことをせず、
堂々と死ぬためにも、
「畏れる力」っていうのを涵養したいと願っています。

ですから、
今、その方法を探っているところです。

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