「生きる名人」をめざすにあたって、
さて、
まず、どんなことが大切なんだろうと考えました。
そこで、
ひとつ思いついたのが「畏れる力」を身につけるということです。
なんだか「〇〇の力」っていうと、
ベストセラー狙いの新書のタイトルみたいで、
安いぽいですね。
僕が考えるくらいだから、
本当に安っぽいのかもしれないけれど…。
何がいいたいのかというと…。
やはり人間には加減、塩梅(按配)が必要じゃないかなということです。
狩猟民族と農耕民族っていうのがありますね。
遊牧民や、狩猟農耕折衷型もあるわけですが、
それはさておき、
「タネまきなしに収穫なし」
これは農耕の基本です。
一方、狩猟はどうなんでしょうか。
捕獲の道具を作ったり、
技術や知識を身につけたりといったコストは必要ですけど、
これをタネまきと同じレベルの準備とみていいのか。
(ちなみに焼き畑農業はここでは考えないことにします)
山や海、野で生きている生き物を捕獲して食べる。
食料がタダで手に入るわけですね。
でも労力は使っている。
その結果としての報酬となるわけですが、
それが大規模になって、
経済とか「国益」とかいわれるものが優先になると、
自分たちで消費する以上の分が必要になってきて、
加減や塩梅(按配)とかいうものがなくなってしまう可能性がありますね。
もちろん狩猟だけに限らず、
金融とか、
エネルギーとか、
…最初、農耕と狩猟を分けながら、
矛盾するようですが、
農業だって例外じゃない。
狩猟の経済論理が優先する農耕だってあるような気がしますから、
いろんなビジネスがその危険性をはらんでいるわけで…。
つまり、
地球の天然自然の力のバランスを壊す危険性ですね。
もともと、
日本人には、
人間っていうのは、
自然のバランスを乱す生き物なので、
なるべく、うまく折り合いをつけて無茶なことはしないで、
おこう。
そうじゃないと神様やなんかのバチが当たるんじゃないか、
という思いが意識的にも無意識的にもあったような気がします。
他の国や地域のことはよく知らないので、
他所でもそうだったのかもしれない。
それはさておき、
だから、
天然自然のバランスを壊しすぎて、
海や山の神さまの怒りにふれないようにという遠慮というか、
自制心があったと思うんです。
神事なんかをみても、
自分たちが得て血肉や収入のもとにした収穫物や、
道具への「供養」っていうのが今も残っています。
自分の都合ばかりを優先して、
強欲になると、
結局、まわりまわって災難が降りかかるので、
自制するためにも、
そういう儀式があって、
もしかしたら、
それは何かの経験や教訓にもとづいているかもしれません。
なにか世の中で不自然で行き過ぎた塩梅の悪いことがあると、
それがいくら合理的で理にかなっていても、
無意識みたいなもんが、
「なんか、おかしい」って警告してくれるような気もします。
その警告を聞けるのが「畏れる力」だって思うんです。
もちろん、
間違った旧態依然の悪弊の影響で、
「不自然だ」と感じてしまうこともあるでしょう。
そんなことと、
正しい警告を判別することも含めて、
「畏れる力」。
とにかく、
将来、禍根を残すような流れに棹をさして、
いけない方向への推進力になるようなことをせず、
堂々と死ぬためにも、
「畏れる力」っていうのを涵養したいと願っています。
ですから、
今、その方法を探っているところです。
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