2016年も残り半年を切って大阪では今月下旬には天神祭です。
何と!新聞社を退職して9カ月以上が過ぎてしまいました。
第2の社会人生活が始まってボーッとしている場合じゃないのに、
退社半月前に父が癌(がん)で亡くなったこともあって、
バタバタしているつもりが仕事的にはボーッとしてしまったようで、
気がついたら、夏って感じで、
冬とか春があったっけ?という気分で、
僕の体感では少なくとも本来の2倍くらいで速さで時間が過ぎてますね。
もしかしたら、
まちがって僕にだけ、うっかりと早めに「7月」が来てしまったかと思うくらい。
「7月」が「あっ間違ってました。あわてものなもんで」って謝って引き返していき、
「4月1日」あたりが、「すみません。寝過ごしました」って頭をかきながら“出勤”してきて、
僕も「やっぱ、そうっすよね。いくらエイプリルフールだからって冗談きついわぁ。今が7月なわけないもん」というほうが実感に近いかも。
で、みなさんのところにも「7月」は来ていますか?
「俺のところは、まだ2月だ」という方は病院へ行ってくださいね。
長くなってしまいましたが、
以上は前置きで、
これから書く本文よりも長いかも。
何が書きたかったかというと「マス」の話です。
サカナじゃなくて、
もちろん“あれ”でもなくて、
“mass”…「大衆」です。
新聞社っていうのは「マスメディア」のひとつでもありますから、
いわゆる大衆に向けた情報発信を行っているわけです。
でもよ、新聞社を辞めて「マスって何よ?」って、
あらためて考えてみたら、
それが、よくわからない。
「マスコミ」とか「マスメディア」という業界に在籍していたのに申し訳ない、面目ないです。
でも、謝ったり、アタマをポリポリかいているだけでは芸も能もないので、もうちょっと脳ミソをつかってみました。
で、「マス」なんていうのは発信者側からの発想だと推察してみました。
新聞社の歴史的な経過は省いてしまいますけど、
さまざまな経緯を経て、
そこそこの大部数の、いわゆる全国紙・ブロック紙…そして地方紙があります。
それらのメディアにとって読者は顔のみえにくい「数」の集積なんですよね。
既存のテレビ・ラジオの視聴者も、そうです。
逆に考えれば、多くの人々に効率的に情報を伝達できる“希少資源”として「マスメディア」っていうものがあったわけですね。
だから顔の見える個人への情報伝達、または、個人とのコミュニケーションという姿勢は希薄で、いろんな情報を限られた紙面や放送時間のなかに詰め込んで「大衆」に発信していました。
そして、今も、確かに、そうです。でも、インターネットの進化で、情報発信のコストが下がって参入障壁も低くなったうえ、相互交流も容易になりました。
これまで読者は購読料を払った新聞紙のスペース内に幕の内弁当のように詰まったニュースを“好き嫌い”にかかわらずリーチしてしまっていたケースが多かったわけですけど、
インターネットとなると、
無料で自分が興味のある情報だけを選ぶこともできてしまう。
つまり、既存メディアでは発信側が編集の主役だったのですが、インターネットではユーザーも自分で編集できる部分が増えたとも言えます。
そうなってくると、もうユーザーは「大衆」ではひとくくりできません。
メディア側が伝えることと、
ユーザー側が知りたいことの一致が情報への接触の重要な要素になってきますから「大衆」と、ひとくくりにしてしまうと、
その需要と供給が全く一致しない場合、
そこそこの「数」の集積であったはずの「大衆」の中身がゼロってこともあるわけです。
つまり「大衆」っていうのがマスメディアの情報発信力が希少価値だった時代の定義だったことになります。
言い換えれば、もともと「大衆」なんていなくて、
既存のマスメディアがユーザーとして創作した幻だったといえそうな気がしています。
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