2018-11-24

なぜ、おっさんは「大阪万博」に興奮するのか?

8年ほど前に大阪・日本橋の古書店で見つけて思わず買ってしまった1969年12月発行『これが万国博だ―その歴史と会場案内』です。企画・執筆は「サンケイ新聞大阪本社社会部」。当時の産経新聞の題字はカタカナでした
博覧会国際事務局総会が23日にパリで開かれ、2025年の万博の開催地が大阪に決まりました。1970(昭和45)年以来、55年ぶりの大阪での万博が開かれるわけです。

70年当時、僕は和歌山市内の小学2年で、両親と一緒に万博を見に行きました。確か6月です。今、住んでいるマンションはバルコニーから直線距離で2キロくらい先に「太陽の塔」の右側の“うなじ”が見えます。ここを住処に決めたのは、それが僕にとっての最大の理由でした。自宅から「太陽の塔」が見えるなんて夢のような気さえしたのです。

当時の小学生にとって「万博」は未来そのもので、会場は時空を超えた異次元のような特別な存在でした。「太陽の塔」は、その象徴だったのです。

実際に会場にいると、そんな未来がタームワープしてきたようなエリアに身を置いているのが不思議で、その後、初めて海外(ブラジル)に行ったときよりもインパクトがありました。

その年の夏休みの宿題の工作が展示された棚には牛乳瓶に麻紐などを巻いて芯にした紙粘土製の「太陽の塔」がズラリとならんでいました。もちろん僕の作品もそうでした。

各パビリオンにはスタンプが用意されていて、それを押すためのノートやメモ帳に、会場に来ていた一般の外国人客のサインをもらうのが流行っていた記憶があります。

初めて足を踏み入れたパビリオンがニュージーランド館だったことも覚えています。

そのときのことが忘れられなくて1995年、社会部記者だった時に、僕が関わっていた連載企画が、ジャーナリズム関係の団体の海外取材派遣対象に選ばれたとき、行き先をニュージーランドにしました。

この年は阪神・淡路大震災があって、日本と同じ島国で地震国のニュージーランドの地震対策の現状を取材するという名目が、他のどこに国に行くよりも説得力があったからなのだけど…。

事前の調べで、大阪万博の会場でコンパニオンをしていたことが縁で、ニュージ―ランドに嫁いだという女性がいることもわかり、現地で、ご夫婦に当時の、お話を聞きにうかがい、ひと晩泊めてもらったのでした。

まぁ何が言いたいかというと、1970年当時の万博の盛り上がりを直で知っている世代にとっては、今回の「大阪万博」の決定は当時の思い出と重なって、感慨が、その時のことを知らない世代に比べて半端ないってことです。

そういう意味では、当時を知るおっさんたちの「良き時代」へのノスタルジックばかりが空回りして、本来は前向きなはずの万博を後ろ向きにしちゃう可能性もあるので、注意しないといけないし、「2025万博」を「1970万博」と比べて違いにがっかりするのは話が違うってことですよね。

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